平成22年4月から平成23年11月まで

ブログで40数回にわたり

僕の少年期から四十路に入り

福岡に帰って来るまでのヒストリーを

書いたものです

 

自分で言うのも何ですが

なかなか評判がよくて

 

はじめて見る人も

読みやすいように

初回から順にまとめました

 

3話からは各タイトルをクリックすると

ライブドアブログに移ります

そちらが字が大きくてラクにご覧戴けます

 

 

個人名、団体名が実名で出てきたりします

かなりの批判もありましたので

一応フィクションと言う事にしときます 

 

 

福岡に帰ってきた理由

結構長くなりますので

何十回かに分けて

話していきたいと思います。

 

とりあえず簡単に言いますと

去年の5月から無職で

やる事がなく十年近く

実家に帰ってなかったので

この機会に帰ってみることにしました。

福岡に来るのも約10年ぶりでした。

 

実家に行くのも、親・兄弟に会うのも

かなり久しぶりで母は以前に比べて

かなり老け込んでいて

父が入院している病院に行ったら

僕が来たことも分からず

変わり果てた姿で寝たきりの状態でした。

思わず泣きそうになりましたが

グッとこらえて

僕はかなりの親不孝をしていたんだなと思い

心が痛みました。

この時に福岡に帰って来ようと決めました。 

 

この時が6月で福岡に引っ越して来たのが9月

店のオープンが11月

 

 

   つづく…

福岡に帰ってきた理由 ①

高校卒業して、すぐに上京して

フランス料理屋さんで修行して

その他あらゆる飲食店を歩きまわり

27歳で東京四谷でフランス料理屋を

オープンさせました。

10年間経営し閉店しました。

その後ペットショップで約3年間

勤めました。

 

ペットショップに勤めていた時

勤務先が横浜と千葉で

僕の住んでいるところは

新宿で一日の通勤時間が

2時間~3時間かかっていました。

朝は、都心から郊外に出るので

通勤ラッシュにはあわず

電車の中ではいつも

座って行けました。

帰りも同じです。

電車の中で毎日、本を読んでいて

一日1冊読んでいました。

月にすると20~30冊は読む

かなりの読書家でした。

 

去年の4月ペットショップを辞める頃に

白石一文の本にはまりました。

福岡の人でこの年の秋に

直木賞を受賞した人です。

この作家のストーリーには

ほとんど福岡が舞台で

僕にはあまり馴染のない地名

大名・警固・薬院・百道など

いろいろ出てきて

福岡にかなり興味が湧き

近いうちに一度行きたいなと

思うようになっていました。

 

       次回につづく…

福岡に帰って来た理由②

5月で約3年勤めたペットショップを退社しました。

ペットショップと言っても僕の仕事は

ペットと一緒に楽しめるレストラン、いわゆるドッグカフェの

運営です。

四谷の店を閉める時に

首都圏で20店舗を展開するペットの総合商社

(株)ジョーカーの瓜生専務に拾ってもらいました。

ドッグカフェをやりたいけど飲食のノウハウがないので

手伝ってほしいという事でした

僕も数年前にプライベートでペットの件でトラブルがあり

ペットの事に興味があったのでジョーカーに入る事にしました。

 

ドッグカフェでは人間の料理はもちろん、ワンちゃんの料理も

出さなければならなりません。

犬の事に関して僕は全く知識がないので

社内の犬のエキスパートの方に

色々教えてもらい試行錯誤して

メニュー作りをしました。

ワンちゃんの食事で特に気を付けるところは

アレルギーと摂取カロリーが主です。

他のドッグカフェにも行きワンちゃんの料理を

見たんですけど、どの店も料理というより

餌みたいでした。

僕は料理人のプライドがあり

見た目にも美味しそうな料理を

作る事にしました。

 

ジョーカーが作るドッグカフェは

他のドッグカフェと違い

ワンちゃんとそのオーナーが

おんなじテーブルに座って

食事ができる事です。

 

 

ワンちゃん同士の結婚式もやったり

結構面白いこともやるお店でした。

ワンちゃん用の料理も定番メニューのほかに

季節ごとのイベントメニューも作っていました。

ワンちゃん用のクリスマス・ディナーです。

ハロウィンパーティーの料理です。

夏のプレートでワンちゃんの

夏バテ防止の料理です。

お花見プレート
初夏の新緑プレート
ワンちゃん用パフェ
ハロウィンパーティーのケーキ
シュナーザーっぽいケーキ
一応フレンチブルドッグ
ウエステリーのつもり
ダックス
ワンちゃん用のバースデ-ケーキ

これらの料理・ケーキは全てワンちゃん用です。

人間用の料理と違い、食材を普段使わないようなものを使ったり

マクロビエテックの考えを生かし、雑穀を多く使ったり

塩は一切使用していません。

チョコレートやココア、砂糖も使わず

キャロブや炭、クリームには豆乳を

使ったり今までやったことないやり方でした。

 

この3年間はこういう仕事をしていました。

 

 

             次回に続く…

福岡に帰って来た理由③

四谷の店を辞める時に、2,3年後には
また店を出す予定でいました。

ペットショップに入って
2年が過ぎた頃の秋に
リーマンショックが起きて
世間が100年に一度の大不況と
騒ぎ始めたころに
やるなら今しかないと思い
ペットショップに辞表を出し
半年後の5月の頭に
辞める事になりました。

どうしてこんな不況な時に
店を出すのか
友達に不思議がられました。
でも、世間が不況になれば
家賃が下がり、その他
あらゆる物が安くなったりします。
オープンの予定はリーマンショックから
1年後ぐらいの夏か秋ぐらいかなと
その時は思っていました。

店を出す場所は家の近所の
神楽坂に出すと3年前から
決めていました。

四谷・神楽坂は十数年前から
小さなフランス料理屋や
イタリア料理屋が数多く
かなりの激戦区で
15年前に僕が四谷に店を構えた時は
数すくなかったんですけど
10年間やってる内に
店の数は3倍になりました。

四谷から神楽坂に移るのは
僕の店の常連のお客様が
神楽坂に多く、いつも飲みに行くところが
神楽坂で街の雰囲気も好きで
今度やるならここしかないと思っていました。

去年の1月頃から不動産屋を回り始め
夏頃に店を出したいから
探しといてくれと言ってまわり
神楽坂の相場を聞いたら
通りから一本入った
裏通りで、坪三万円と言われ
全く手が出せないと思いましたが
夏頃にはかなり下がると信じていました。
ただその当時から空き物件が全くなく
家賃も下がらないんじゃないかと言われました。
当時神楽坂は、今もそうですけど
かなり人気エリアで
ドラマの舞台になったりする所です。
前の年から東京の地価は
下がり始めていたんですけど
神楽坂だけは下がらず
なぜか、上がっていました。

                 次回に続く・・・・・・

福岡に帰って来た理由④

去年の今頃はプー太郎、無職でした
仕事をしなくなって一週間になると
なんか罪悪感を感じて
二週間過ぎると慣れてきて
仕事しないのが当たり前になり
今年いっぱい仕事しなくていいかな?
と思うようになっていました
結局、プー生活は半年で終わりましたが

プー太郎の生活は朝が早いです
僕が住んでいた所は夏目坂と言う所で
昔、夏目漱石が住んでいたところで
新宿区内でも閑静な高級住宅街で
著名人や芸能人が多く住んでいる所です

毎朝5時に起きて夏目坂から皇居まで
3kmのウォーキング、皇居の周り5㎞を
約20分で走ります。僕なりに、かなりハイペースです
(10代の頃は10㎞を30分台で走っていました)
走り終えたら隣の北の丸公園(日本武道館がある所)で
ストレッチをして、ゆっくり散歩して帰ります。
この時間じゃないと通勤の人々でいっぱいになるので
いつも早起きしてました。
プー太郎になってから走り始めたのではなく
5年位前から東京マラソンでフルマラソンを完走する為に
週に2、3日は10㎞を走り込んでました

3年位前の事なんですけど皇居を走っていたら、なんと
天皇陛下がお散歩中にバッタリ出会いました
10m位の距離で生の天皇、皇后両陛下を見る事が出来ました
両陛下には後光が差していて暖かい感じがして
僕みたいな平民と違い、高貴なオーラが出ていました
感動で夢のような出来事でした。



7時前に家に帰りシャワーを浴びて
酒を飲みながら新聞を読み朝ご飯を食べて
昼まで熟睡
昼過ぎから夕方まで図書館
雑誌、昔の新聞、歴史書など
あらゆる書物を読みまくっていました

雨の日はゆっくり9時ごろ起きて
歩いて東京地裁に行き裁判を傍聴してました
裁判所は映画館みたいな所で一日に、いくつもの法廷で
いろんな裁判がやっていて自分が見たい裁判を傍聴して
面白くなかったら別の法廷に行き別の裁判がみれます
映画館と違い高いお金を払わなくてよく、
ストーリーがリアルです
僕は暇つぶしで傍聴してたんですけど
被告人の生い立ちを聞いていて
僕と似たような処があると、他人事には思えませんでした


昼間はみんな仕事で遊んでくれる人がいないので
ほとんどお金はつかいませんでした
夜は毎日、食べ歩き、飲み歩き      
                       次回につづく









福岡に帰って来た理由⑤

ぷー太郎生活で全く仕事しなかったわけではなく
店の物件探しをしてました。
不動産を回ったり、街を歩き回ったり
(朝のウォーキングの時)
明け方の神楽坂、市谷
四谷の街を知っている町だけど
改めてゆっくりと、空いている店舗はないか
新築の建設中のビルはないか。

朝のごみの回収前の町
飲食店の前には情報がたっぷり
店の規模とごみの量
空きビンの量、お酒のグレード
使用済みのおしぼりの数
曜日での変化
1件1件全く違って
昨夜の情景が想像でき
勉強になりました。



週に1~2日は近所の和食屋さん
(先輩の店)のお手伝い
ここでのお給料は
頂きませんでした。
「僕が暇つぶしでやっているので
酒を飲ませてもらえればいいですよ」
ただ、洗い物しかしない約束だったのに
お店が忙しくなったら
なんでもやらされていました。
店の若い板前よりも僕の方が
全く仕事ができて早かったから
そうなるのでしょう。
久しぶりの和食の厨房は
おもしろかったです。
ここで先輩に貸しを作り
その後、何回か食事に
連れて行ってもらいました。
僕は若い時から
こんな事ばっかりやっていました。


この年の初めから
もう1つ仕事をしていました。
これも無給ですが
以前、僕の店で料理見習いで来てた
W君が今は都内でスーパーを
20店舗も展開する会社の専務
(社長の息子)でW君から相談を受け
デリ・お惣菜を充実させ
売り上げを伸ばしたい
協力して欲しいとのことでした。
この時、僕は犬のお惣菜は
その時勤めているペットショップで
ネット販売までやるような事をしてましたが
人が食べる物は
まだ経験した事がなかったので
協力する事にしました。
この仕事は4人のチームでやっていました。
僕とW君、スーパーの料理長T君
グルメ・フード専門の女性フリーライターのMちゃん。
W君がリーダーで、Mちゃんがメニュー
売れ筋商品、これから流行りそうな食材の提案。
僕とT君が研究・開発・調理
が担当です。飲食店で料理を作るのとは違い
惣菜、弁当は作り置き
時間の経過による味の変化
それに伴う商品の劣化
僕の分からないところは
専門職のT君に任せ僕は他の店にないような
魅力ある商品、洗練された味を作りだすのが
課題でした。

このチームで僕が一番年上で
偉そうでした。
いつもミーティングは
中華料理屋さん
これは僕が決めていました。
中華でもラーメン・定食・餃子ではなく
高級中華料理、ヌーベルシノア
ミシュランの星付きばっかり行ってました
中華料理にはシャンパン、ワインが良く合います
高いワインもいっぱい飲みました
支払いはいつも会社持ち
いつも4人で
軽く10万円は超えていました。


もうひとつの大きな仕事
ぷー太郎になる目的
それが食べ歩き
あらゆる飲食店に
食事に行く事でした。
この続きは・・・・・・次回。

福岡に帰って来た理由⑥

ぷー太郎になってからやりたかった事は
毎日いろんな店に行って
食べ回る事でした。
フレンチ・イタリアンに限らず
和食・中華・焼肉・アジアン・すし・そば
その他あらゆる飲食店にほぼ毎日
2,3件は行ってました。
若い時は時間があっても行けなかった…

今の年になって少しお金の余裕ができて
この機会じゃないとできないと思い
福岡に帰るまでの4ヶ月間
食べまくりました
4ヶ月間の飲食費だけで
軽く100万円を超えるぐらい遣いました。

これからも飲食業を続けていこうと
思ってた僕には
飲食費ではなく
授業料だと思ってお金の事は気にしないで
ガンガン食べまくりました。
僕にとってプー太郎生活の
一番の仕事です
美味しい仕事。

食べ歩くにも僕は1人で
店に食事に行く事が出来ず
また、店の方から見たら
知らないお客さんが
1人で来るのは不自然で
食べるのも会話をしながらの方が
美味しく食事できます。

行く相手は前の店の常連のお客さんや
今度僕が店を出すのを応援してくれる人たち
大体僕より年上で、みなさん裕福な方々で
いつも御馳走になっていました
食べに行くところは
和食、すし、魚が多かったです。
50代ぐらいになると
やっぱり,さっぱりした物がいいようです。

同業の友達と食べに行くのは焼肉が多かったです。
フレンチのプロの料理人に焼肉を焼かせたら
おもしろくて、焼き方に色々なこだわりがあり
部位によって全て違い
火力の調整までして焼きます
僕はそれをまねて焼くと
また美味しい。
僕の焼肉屋でのこだわりは
豚足を網でカリカリに焼いて
食べる事です。
普通、豚足は冷たいままで食べますが
焼いたら表面がパリッとして香ばしく
ゼラチン質が溶けだしているので
少し柔らかくなって美味しいです。

食べ歩きのほとんどは女友達と行ってました
なぜか女友達が多く
毎日、違う女の子と食事に行ってました。
(福岡に来てからは一緒に食事に行く女友達はまだ見つかりません)
女の子と2人で行くときは
ほとんど年下の子で
僕のおごりになります。
たまに、同い年や年上の人の時は
割勘の時もあります。
行く所はフレンチかイタリアンが多かったです
こういうところは男同士よりカップルで行くのが
自然で、店の方もごく普通に接してもらえて
僕も普通に店の方とお話し出来て
店をよく観察する事が出来ます。
初めて行く店でも僕はいいお客さんと
思われていたようで
店からのちょっとしたサービスも
よくしてもらったりしてました
それは僕がどういうお客さんが
お店からしたら、好かれるか
いいお客さんに思われるか
知っているのでいいサービスをしてもらいます

店に好かれる条件は
書きたいのですが
今、うちの店のお客さんも
このブログを見られているので
やめときます。

週に1回か2回は合コンに誘われてました
女の子が目当てではなく
行くお店、料理が目当てで
誘われたら絶対に行ってました。
男性も女性も30後半から40前半
みんなお金に余裕があるので
予算は1万円まで
行く店は僕が決めて予約していました
合コンはやっぱりイタリアンです
料理を注文するのも
ワインを選ぶのも僕が1人で仕切って
好きなものを食べてました。
普通合コンの時はコース料理が多いと思います
はじめて会う男女が料理を選んだりすると
皆遠慮してなかなか決まりません
でも僕は皆に任されていつも料理・飲み物を
勝手に選びます
合コンに来た女の子と話すより
店のスタッフの女の子と話すのが
おもしろかったり話がよく合います
合コンの時、女性は
あまり食べなかったりする人がいますが
食べる女性はかなり魅力的です
たまに仲良くなった女の子とその後
2人で食事に行ったりしました。

月1回は10年来のメシ友、女実業家
(年収〇千万円)のH社長との食事
H社長は僕の店のお客さんでした
僕と同い年で話しも良く合い
酒もよく飲むので
約10年間のメシ友が続いてました
もちろん割勘で、行く所は
すべて名の通ったところで
ミシュランで3ッ星や
そのクラスの店に行ってました。

割勘でも1人5万円くらい払う時もありました
フレンチのグランメゾンなんかに食事に行くと
コースが1人1万5千円ぐらい
はじめにシャンパン1本・白ワイン1本
赤ワイン1本2人で3本飲みます
(知り合いがいる店にしか行かないので
 ワインはいつも安くしてもらってました)
メインの肉料理を食べてワインが少し残っているので
チーズをもらってワインと楽しみます
ここまででかなり満足ですが
ここからが僕たちの食事のメインがやってきます
デザートを食べてエスプレッソで口の中を絞めて
そこで食後酒、DRCのマール
(あの有名なロマネコンティの絞りかすで作ったブランデー)です
これを1口飲んだら嫌な事を
すべて忘れてしまうぐらいの幸福感です
香りもすごく良く、次の日までは
この余韻は消えません
普通にマールを飲んでもそんなに
感動しません。
コースのオードブルからデザートまで
しっかり食べて
それに合うワインも飲み
楽しい会話もし
口の中はいろんな味で
複雑になっていて
脳も刺激されて
最後のとどめに
香りのいいブランデーを
飲むのでハッピーになるのでしょう

H社長と行った店で1番記憶に残っているのは
やっぱり数寄屋橋 次郎でしょう
次郎さんが握る寿司はスシと一口で言うよりも
芸術品です
次郎さんの握る寿司は別格
香りがいい、口に入れると
シャリが溶けてしまいます
今まで食べてきた握り寿司が
握り飯に思えるくらいです
この時行ったのは3年前で
ミシュラン東京に出る前でした

福岡に帰る前にH社長が最後だから
御馳走してくれると言うので
どこに行きたいかと聞かれ
僕は迷わず銀座のロオジエと言いました
日本で最高峰のフランス料理のレストラン
料理、サービス、店内のすべてまで
何も言うところがありません。完璧でした
料理もワインも全てH社長に任せていたので
いくらか分からなかったけど
かなりの金額だったと思います
ご馳走様でした。

              
                次回に続く…

福岡に帰って来た理由⑦

毎晩いろんな店で食べ歩き
決して二日酔いになる事は
ないようにしていました。

飲みつぶれてしまったら
朝のウォーキング・ジョギングが
出来なくなるので
夜12時までには帰るようにしていました。

それで毎朝5時に起きる
そうしていないといつまで続くか分からない
プー太郎生活がだらしなくなりそうでした。

毎日決まった時間に勤めに出るわけでもなく
誰かに尻を叩かれるわけでもない
自分がしっかりしていないと
充実したプー太郎生活が送れそうにありませんでした。



この10年間、帰省した事はなく
福岡の事、実家のある柳川の事も
全く眼中にありませんでした。
親、兄と最後に電話で話したのも3年前

何故帰らなかったのか?
悪い事をして帰れない
後ろめたい事をして帰れない訳ではありません
僕もこの10年いろいろあり
(離婚・システム金融(ヤバイ所)との不動産トラブル
精神的な病、店の閉店…これらは後で書きます)
東京での事がいっぱいいっぱいで
故郷の事を振り返る事がなく
もう福岡に帰る事はないだろう
親・姉・兄に会わずこのままフェイドアウト
そんな感じでいました。


プー太郎の僕には色々考える時間がたっぷりあり
ボーっとする時間もたっぷり
ある時いきなり何故か悲しくなり
福岡に帰りたい、親に会いたい想いが
こみ上げて来ました。
この2,3日前に寝言で
「う~…きつか~」と苦しそうに
九州の方言を言っていたそうです。



去年の6月に約10年ぶりに帰省する事になったのですが
今度帰るのが最後、もう二度と
福岡に来ることはないだろう
親の顔の見治め、故郷の見治め
故郷を捨てようとする後ろめたさがありました。
こういう気持ちでいる人
故郷を捨ててしまった人は
東京には少なくないと思います



福岡空港に到着する前
機内から見える博多湾
福岡の大都会、都市高速
その先に広がる山々
自然が近くに恵まれた都市
福岡がいい感じでした。
街を真上から近くで見たら
怖かった…
街の真上を大型機が低空飛行する所は
日本では福岡と普天間ぐらいでしょう

空港から天神まで地下鉄
電車の中はガラガラ
博多から人がドッと
乗ってくるだろうと思っていたけど
そうでもない
平日なのに休みじゃないかと思うくらい

福岡の街は良く知りません
知っている所は
大濠公園の近くにある
福岡武道館ぐらい
高校の時試合でよく行ってました
負けた時は天神まで歩いて帰っていました

あと20数年前、親不孝通りが賑わっていたころ
マリアクラブに何回か行ったぐらいです

天神の周りを少しブラブラ
良く分からないので
西鉄電車に乗って
実家のある柳川に帰る事にしました。

電車も特急が30分に1本しか無いのがつらい…
最寄りの駅は柳川で乗り換えて
3つめの中島駅。天神から1時間弱。
中島駅で電車を降りたら
降りる駅を間違えたかと思ったくらい
10年前と全く変わっていて
実家までどうやって帰ったらいいか迷いました
浦島太郎になった感じでした。




                    次回に続く…

福岡に帰って来た理由⑧

僕の実家があるところは
前の山門郡 大和町です
数年前の平成の大合併で
いつの間にか柳川市になっていました
僕が住んでいた所は中島という所で
海苔の養殖が盛んで、漁師の家庭が多く
大牟田から柳川にかけて
他の町とちょっと人々の気性が荒く
言語が少し異なった町です
僕はここで、生まれてから高校を卒業するまでの
18年間を過ごしました

僕の実家は代々続く和菓子屋さんで
僕が生まれる前はかなり賑やかで
昔のテレビドラマの「寺内貫太郎一家」
みたいだったそうです
僕が小さい頃は、よく兄と遊んでいました
両親は夜遅くまで仕事をしていて
夕食は祖母がいつも用意して
兄と2人で食べていました
姉がいるのですが、やんちゃの弟2人が
みっともない存在だったみたいで
あまり一緒に居ませんでした
僕たちと一緒だと思われたくなかったのでしょう

小学校に入る前の記憶はあまりありませんが
覚えているのは夜に祖母と
近くの川(一級河川の矢部川)に
ゴミ捨てに行く事です
台車みたいな物にゴミをいっぱい積んで
引いていき、橋の上から投げ捨てていました
橋の上から水面まで10mぐらい
この高さから投げ捨てるのは気持ちがいいです
今はとても考えられない事ですが
当時(昭和40年代)はどこの家庭も
平気でやっていました

小学校低学年から簡単な料理を作っていました
料理という程の物ではありませんが
両親・祖母が忙しく働いていたので
昼なんかに、おやつ代わりに焼きそば
ラーメンなど、厚焼き玉子なんかも作っていました
家には食材が豊富にあり
特に卵・小麦粉・砂糖はいっぱいあったので
しょっちゅう玉子焼きやお好み焼きなんか作っていました
料理が好きという訳ではなく、遊びでした。

小学3年生から柔道を始めました
遊び感覚で始めたのが、この後
10年も続けるとは思っていませんでした
小学生の頃はそんなに強くありませんでした
その時強かったのは、今でも付き合いのある
後のF社長でした
F社長とは家もかなり近所で
たまに遊んでいました
その当時から2人で色々と
悪戯ばかりしていました

小学校の勉強はやさしかったので
そんなに成績は悪くはなかったのですが
人の言っている事が理解できなかったり
文章の読解力がなかったので
特に国語がダメでした

小学生の僕はただ考える事を知らなかった少年でした
勉強もそうですけど、日々の行い
何が良くて、どうしたら悪いのか
何も考えることなく育った僕は
そのまま中学に進み
そこで待っていたのは……



                     次回につづく…

福岡に帰って来た理由⑨

約10年ぶりの実家は昔と変わった事はなく
ただ、家が古くなっていただけ…
久しぶりに帰って来た僕を母も兄も
温かく受け入れてくれて
申し訳なく思いました
変わっていたのは母が以前よりだいぶ老けていた事です

父は数年前から入院していたので見舞いに行くと
父かどうか分からないぐらいに変わり果てていました
まるで別人みたいでした
意識もはっきりしていないようで
僕が来た事も認識できなかったようです
身体も痩せ衰え
手足は骨と皮、少しの肉
そんな父を見ていると悲しくなり
泣き出しそうになりました
10年も親に顔を見せない
親不孝者です
何も言葉が出ませんでした
昔は父の太い腕で力強く
ボロクソにぶん殴られていた中学生の頃が
嘘のように思えます




中学に入ってからは勉強が全く分からず
算数が数学になりとかYの関数とかが
出てきたら何が何だか分からず
英語はアルファベットと簡単な単語は分かるけど
過去形とかなんとか出てきたら全く分からず
やる気がなくなりました

一学期はどうにかついていったのですが
夏休みが終わったら一学期に覚えていたのが
スッカリ忘れていました
通知表の成績は一年の一学期は2とか3とかが
あったのですが2学期からは
他の教科も1ばっかり
オール1でした
高校卒業までそれは変わりませんでした
ただ体育だけは何故かずっと5のままでした

中一の夏休みが終わったら
額に剃り込み、眉は細くなっていました
この頃からタバコも吸い始めていました
中学の先生は怖い人が多くて
いつも先生に殴られていました
何の悪さをしたのかよく覚えていませんが
よく、平手ビンタを
されていたのだけは覚えています

殴られると体が後ろに下がり殴られる度に後退していきます
教室の端から端まで折り返して往復します
1往復したら連続ビンタ30発ぐらいです
口の中は血の味でしょっぱく
次の日には頬が倍に腫れあがっていました
今はもうほとんど存在しない暴力教師が
普通にいました
親も学校によく呼び出されて
僕と一緒に怒られていました
頬が腫れあがっている僕の横で
母は「もっと厳しくしてください。
これからもどんどんお願いします」
今の学校ではこんなシチュエーションは
あまり見る事は無いかも知れません

学校の中ではよく先生に呼び止められて
持ち物検査・身体検査をされました
ヤバイと思ったら分からないように
素早くポケットから物を捨てていました
でも先生も慣れたもので
ポケットを裏返してみろと言われ
裏返したらタバコの葉がいっぱい…
それでまたボコボコに殴られる有様でした
殴られていたのも2年生まで
3年生になったら悪さしても殴られる事は無く
理解ある、いい先生になぜか変わっていました

中学1・2年の頃は全く何も考えず
勉強も全然しなくて
いつも友達と遊んで悪さをしていました
学校に行くのが楽しく
給食が一番の楽しみでした



      話は変わりますが東京に居る
      中学2年生の長女が
      この頃不登校みたいで
      話を聞いてみると、どうやら
      イジメにあっているようです
      本人はイジメにあっているとは言いませんが
      学校で持ち物が無くなったり
      無視されたり、意地悪されるみたいで
      皆よそよそしく、味方になってくれる友達が
      居ないようです
      仲良くしていると、次は自分が
      イジメられるかもしれないので
      自己保身のために近寄らないのでしょう
      長女は僕と違い、曲がった事が嫌いで
      ダメな事はダメとはっきり言う性格で
      そういうのが周りからはウザくて
      そうなったのかもしれません
      娘は学校に行くのが辛いと言っているので
      僕は「行かなくてもいい」と言いますが
      娘はこのまま行かないと高校に行けなくなるので
      週に2、3日は行っているみたいです
      辛いのに無理して学校に行っている娘の事が
      心配でなりません
      子供はまだ人の痛みが分からず
      時には大人よりも残酷な事を平気でやるので怖いです
      娘にはそっちの学校をやめて
      福岡に転校の事を話しましたが
      母親の元を離れたくないのでしょう
      娘にはどうにかこの試練を
      乗り越えてもらいたいものです
           
             閑話休題



中学に入ってからもずっと柔道を続けて
毎日稽古に行ってました
少しずつ身体も出来てきて
それなりに強くなっていました
2年生の時、個人のタイトルで
筑後地区で3位くらいがやっとでした

中学2年までは学校も楽しくて
何も考えなくてよく、いい時期でした
悪さも、かわいいものでちょい悪くらい…
それが中学3年になったら
さらに進化していきました



            次回に続く…

福岡に帰って来た理由⑩

中2の春休みから、いよいよおかしくなってきました
夜中に家を抜け出して
遊ぶようになってきました 

友達の家の原チャリや
軽トラを乗りまわしていました
そのうちに、その辺に置いてある
バイクを盗むようになり
初めは50ccのスクーターから
ギア付きの原チャリに変わり
クラッチの付いているバイク
中型の単車(400cc)
どんどん大きくなっていきました

尾崎豊の15の夜みたいに
♪♪盗んだバイクで走りだす……そんな感じ

何台バイクを盗んだか
よく覚えていませんが
夜中の誰もいない田舎の農道を
2人乗り、3人乗りで走り回っていました
国道に出るとたまに
パトカーに追われたりもしました
盗んだバイクのガソリンが無くなったら
その辺に放置してましたが
何台かは堀に捨てたり
橋の上から川に捨てたりしました

この頃は考える事無く
やりたい放題
とんでもない事をよくやっていました

結局、警察の御用となりました
警察署では長~い事情徴収が待っていました
同じ事を何回も何回も何回も聞かれて
前とちょっと違う事を言うと
「さっき言った事と違う。ウソを付くな!」
こんな事の繰り返し
僕のやっていない事も
「お前がやっただろ!」と
しつこく何回も言われ続けて
この密室から早く出たくて
たまりませんでした

この後も、別の件で何回も
警察署におじゃまする事になりました
バイクの窃盗の件は
家庭裁判所送りになりました
盗んだバイクの弁償は
友達と割勘で
1人当たり15万ぐらいでした
親に払ってもらいました
小さい時から
親に迷惑ばかりかけていました

それから6年後
20歳のとき東京で
100万円のローンで
新車のバイクを買い
喜んで乗っていたのは
たったの1週間でした


スキャン0002

それから1ヶ月後警察から電話があり
バイクが見つかったとの知らせでした
捨てられていたバイクは、フレームとナンバーだけでした
外された部品・パーツは
東南アジアに行ってるだろうとのことでした
残ったのは100万円のローンだけ
なぜかそんなに腹が立たず
なんか笑いが出てました
中学の時の事を思い出していました
悪い事をしたら必ず自分に返ってくる
それも数倍になって

因果応報



傷害で警察に引っ張られたりもありましたが
ケンカ、他校への遠征
僕は行きたくなかったけど
友達に連れて行かれて
殴り倒して帰ってきたら
少年課のお巡りさんが
待ってました

この頃に父にボロクソにぶん殴られて
父に泣かれた事がありました
殴られて痛くは無かったのですが
心が痛みました。
父に「そんなに悪い事をばっかりするなら
もう学校に行くな!」
と言われ何日間かは学校に行かず
家の手伝いをしてました
玉子を割ったり
砂糖を量ったり
餡子を丸めたりしてました

家庭裁判所には別の件で
3回行きました
3回とも父と2人で行きました
柳川には家裁が無いので
久留米まで30分ぐらい車の中で
一言も喋らず行き帰り
3回とも帰りに立花うどんで
無言で、うどんを食べて帰ったのが
記憶にあります

もう親に迷惑をかけたくない
人に迷惑をかけたくないと思い始めていました
でも、もう高校には行けないだろうな~
頭も悪いしバカだから
これからどうしようと
不安になっていました


           次回に続く…

福岡に帰って来た理由⑪

勉強は全くしなく、遊び回って
悪い事ばかりしていた中学時代ですが
柔道だけは毎日練習に行ってました
真面目に練習していた訳ではありませんが
少しずつ強くなっていたような気がしてました

3年の頃は柳川警察署の
おまわりさんには負ける事は無く
よく投げ飛ばしていました
今までの仕返し!
中3の夏の福岡県大会では
60キロ級で3位になりました


この時、僕に勝った相手は
1つ年下の広瀬君でした
彼はこのまま勝ち進み
全国大会で優勝しました
決勝戦では
あの、バルセロナ五輪ゴールドメダリスト
総合格闘技の吉田秀彦に勝って
中学チャンピオンになりました

広瀬君はこの後
僕と同じ大牟田高校に
入学してきました
その時は立場が逆転してました
(現在、広瀬君は南筑高校の柔道部監督として
有望な選手を輩出しています)




夏休みに入ってからシンナー中毒になり
毎日が気持ちよく、いつもフワフワしてました
シンナーはタバコと違い
ニオイがなかなか取れません
肺の中までシンナーが入っていて
ニオイが消えるまで1日以上かかります
シンナーを吸ってその後
柔道の練習に行ってましたが
先生と柔道をする時には
口を閉じて鼻だけで呼吸してました
もし見つかっていたら
死なない程度にボコボコにされていた事でしょう



中3の時の定期試験では
答えを書く事が出来ず
〇×などの選択問題しか
書く事が出来ませんでした
学年340人中310番ぐらいでした
せっかくだから
ビリの340番を目指しました
名前だけ書いて
後は白紙で出しましたが
330番ぐらいが最高でした
ビリにはどうしてもなれませんでした
名前も書かない奴がいたみたいです
上には上がいるものです



高校に行くのを諦めていた時に
なんと大牟田高校から
お誘いがありました
柔道の県大会3位の功績が評価されて
特待生で行く事になりました
大牟田高校は駅伝と柔道が強くて有名です
でも、偏差値はかなり低くて
大牟田、柳川ではバカ学校で有名でした
でも落ちこぼれを引き受けてくれる
いい学校だったのかもしれません
(今は昔と違い、東大に行く生徒もいる
進学校に変わっています)

頭が弱い僕は、その中でも一番偏差値の低い
土木科に行く事になりました
特待生でも一応入学試験を受けます
今まで僕は試験勉強というものを
1回もした事は無かったので
この機会にしてみようと
思ったのですが
勉強の仕方が分からず
諦めました

入試当日は、特待生だけ集められた
教室で試験を受けます
僕には問題が全く分からず
いつものように〇×の
選択問題しか書く事が出来ません
その時の試験官が柔道部の先生で
僕が全く答えを書いていなかったのを見て
先生は困ったのでしょう
こんなバカな僕を柔道で取った事を
学校側に知られたらメンツがない
そこで先生は僕の机の上で
指でなんか書き始めました
それは答えだったと思うのですが
僕はその答えが何だか読み取れず
書く事が出来ませんでした
先生の顔を見ると
がっかりした表情をしていました


なんだかんだあったのですが
無事、高校に入る事が出来ました

でも、そこは地獄の毎日が
待ってました
        
           次回に続く……

福岡に帰って来た理由⑫

10年ぶりに帰省した実家では
1週間弱の滞在でした
1日、2日はいいのですが
長くなると自分の居場所がなくて
居心地が悪くなります
実家に居る時に毎日やっていた事は
料理を作る事でした昼と夜

食材は東京から持って来ていました
田舎の人達が普段食べ慣れない物を
夕食の時は5~6品ぐらい作ってました
お土産は何も持って来ていないので
料理を作って食べてもらうのが
僕のお土産でした

帰省して3日目に、20年ぶりに
母校の大牟田高校に行きました
柔道場が昔の古いボロ道場から
新しく大きな道場に建て変わっていました
設備もちゃんとしていて立派になっていました
古い道場を取り壊す時に
道場の床下から大量のタバコの吸い殻が出てきて
それを隠すのに大変だったそうです

道場の中には僕たちの年代で
活躍した時の写真や
数々の賞状が並んでいました

大牟田高校柔道部は現在
同級生の杉野君が監督をしています
杉野君の教え子にはオリンピック選手や
今年の柔道日本一を決める大会で
決勝戦で対戦した二人
その他高校、大学、社会人で
素晴らしい活躍をした生徒を
育て上げています

久しぶりに道場に来たので
20年振りに柔道をしました
道着に着替えるのですが
着方を忘れてしまいました

まずズボンの下はノーパンです
そして上着、かたくて重い
それを着るだけで疲れます
上着の左右のどっちの襟を
前に出すのか迷ってしまい
帯の結び方が分かりませんでした

高校生の弱い相手と乱取りを
1本するのがやっとでした
頭では分かっているけど
身体が思うように動かない
それにスタミナもない
昔の引き締まった体
隆々とした筋肉が
今はブヨブヨの贅肉に変わってしまっている
あ~…あの頃が懐かしい…




高校でも勉強はしなく朝から夜まで
柔道ばっかり
授業中はずっと寝てました

柔道部の先輩達は体が大きくて
皆オヤジみたいでした
それに見た目がかなり怖い人ばかりでした
中学を卒業したばかりの僕の身体とは違い
筋肉の付き方がまるで違います

練習量も中学の時とまったく違い
長い時間で内容もハード
それに先輩のしごき・イジメが
練習以上に辛かった


毎日がいじめられる為に
学校に行っていたような感じでした
理不尽な事は当たり前
それに絶対服従
嫌な顔でもしたら
やられ方が酷くなるので
元気な返事で嫌な顔1つせず
やられていました

同級生の中で僕が1番
やられていました
それは僕が中学の時に
ワルだったからでしょう

いじめられ方も陰険なものではなく
スカッとしていて
かなり肉体的に苦痛ないじめでした
でもいじめられた分
先輩達にはよくしてもらって
可愛がられていたように思います


夏の暑い時期でも
水は飲ませてもらえませんでした
トイレに行く事も許されず
騙されて小便を飲まされた事もあります
練習の時に先生がいないのが
恐怖でたまりませんでした
先輩達のやりたい放題で
このまま居たら
殺されるかもしれないと
思ってました

柔道では絞技があって
稽古中に絞められて
落される(気絶する)
のはしょうがないけど
いじめで無抵抗のまま
よく落されていました

毎日1回は落されていました
多い日には5回ぐらい
連続2回もありました
気絶して夢から覚めた所で
また絞められて地獄に落ちます
この苦しさは何とも言えません

夏休みの時には絞めて落されて
素っ裸にされ、となりの体育館に運ばれて
そのまま放置されていました
夢から覚めたらそこは
女子卓球部が練習している
ところでした
見て知らない顔をしている女子
笑っている女子もいました
とんでもない事を
平気でする先輩達でした

もっと酷い事をいっぱい
やられましたが
これ以上書く事はできません

いじめられていたのも2年生の夏まで
1年半も先輩達にいじめられたおかげで
肉体的にも精神的にも
たくましく強くなっていました

          次回につづく…

福岡に帰って来た理由⑬

高校2年の夏が終わると
柔道で大学に進学する
先輩以外はいなくなり
1番怖かった先輩も来なくなったので
生き返ったような感じでした
1年生の頃は
いじめられるのが凄過ぎて
柔道が強くなる事など、どうでもよく
ただ1日が無事に終わる事だけを
思っていました

ほかの部員は練習がキツイと言ってましたが
僕はいじめられる事が無くなった分
練習に打ち込めて
練習がキツイと思った事はありませんでした
むしろ足りないぐらいでした

練習が終わっても1人で技の研究や
ウェイトトレーニングをしていました
先輩達にいじめられなくなったので
自分で自分の体をいじめていました
これがきつかった
自分に負けたくなかったので
限界までやって
疲れ果てていました

この頃に思っていたのは
小学生から柔道を始めて
10年近くになり
何かを残したい
高校に入れてくれた先生に
結果を出して
恩返しをしたい思いでした

練習中、皆を見ると
真剣に稽古をしているのは
3~4人ぐらい
ほかの30人ぐらいの部員は
気の抜けた、練習の為の練習を
していました
勝つ為の練習をしていたのは
同級生では
僕と杉野君だけでした

その頃は柔道がおもしろくて
どうしたら相手を投げれるか
勝てるかよく考えていました
やっと僕も考える事を知りました

練習が終わって家に帰るのは
夜9時ぐらい
それから夜の遊びも毎日
寝るのは2時か3時
朝は6時半に家を出て
足りない睡眠は
授業中に補っていました

2年の秋の新チームでは
レギュラー(5人制)に
入る事が出来ました
僕より体の大きい
部員が多かったけど
ちょっとマジメに練習してたら
大きい相手でも簡単に
投げ飛ばす事が出来ていました

高校生の柔道のレベルは低くて
大した事はありません
全国のトップクラスは別ですが
普通の高校生では
技は未熟です
体が大きくて筋力があり
闘志があったら何とかなります
僕はその闘志があったので
何とかなりました

格闘技はケンカです
やさしい気持では戦えません
もし僕が寝技で相手に押え込まれたら
相手の金玉を握りつぶしてでも
どうにかしようと思っていました

新チームでの2年の時の成績は
団体戦で県で2番か3番ぐらい
九州大会でベスト8
全国大会でベスト16

そんなにいい成績ではありませんでしたが
悪くもありませんでした
団体戦では5人が戦いますが
勝つ事が出来るのは
僕と杉野君と
1つ下の堺君(現:九州電力柔道部の監督)
の3人だけでした

試合前にはいつも合宿があります
そこで辛いのが食事の時間でした
合宿に参加するのは
レギュラーを含めて10人くらい
それに対して
1食にご飯を炊く米の量が5升
それを1日に3食
その他に肉や野菜
汁物、フルーツ、牛乳1人1ℓが
毎食にでます
料理がなくなるまで
食事の時間は終わりません
腹いっぱいで食べているときに
戻しそうになります
でも無理してどうにか皆で
完食して食事の時間は終わります
僕は食事が終わったら
すぐにトイレに駆け込み
戻していました

先生はいつも体重を増やせ
と言っていました
当時の僕の体重は
65キロぐらい
試合する相手は僕の倍の
120~130キロぐらい
投げられないように
体重を増やさないといけませんでした
1週間の合宿で15キロ増の
80キロぐらいになっていました

体重を増やしたおかげで
130キロぐらいの相手にも
負ける事はありませんでした

合宿での辛い思いでは他にもあります
2年生の冬休みに鹿児島に
遠征合宿に行ったときです
冬休みの初めの12月24日から
鹿児島の桜島の麓で
合宿していました
初日の夜に小便したくて
夜中に起きてトイレに行って
用を足そうとしたら
激痛が走りました
それに少ししか出ませんでした
その夜は3回くらい同じ繰り返し
朝になったら先端から
膿が出ていました
たぶん2,3日前に遊んだ
女の子にうつされたのです

それから1週間毎日苦しみました
もう柔道どころではありませんでした
先生にこの症状を言う事も出来ず
病院に行く事も出来ませんでした
先生にバレないように
痛いのを我慢して元気な振りして
練習試合をしてました

毎日痛みに耐え
トイレの窓から見える桜島を
見ながら苦しんでいました

1週間我慢して帰って来たのが
12月30日
もうこの時には
股間のリンパが
かなり腫れていて
熱も38度を超えていました
もちろん親には
恥ずかしくて言う事が
出来ませんでした

帰ってきてすぐに病院に行きましたが
どこも正月休みに入っていていました
この時はもう絶望的
あと1週間この苦しみを
味わうのかと思っていたら
友達がどこからか
1発で治る薬を仕入れて来ました
僕と同じ症状になった友達が居て
医者に処方してもらった薬を
持って来てくれたのです
それを飲んだら
3日もしないうちに治りました

ただ、友達との年明け暴走に
参加できなかったのが
残念でした…

              次回につづく・・・

福岡に帰って来た理由⑭

3年生になってみると
自分が思った通りの試合運びで
ほとんどの試合で勝っていました
キャプテンの杉野君とよく
柔道の事で話し合っていました
他の部員ではそんな話の出来る奴は
誰もいませんでした

団体戦では県予選で
決勝で負けたので
インターハイに行く事は
出来ませんでしたが
九州大会では優勝
金鷲旗全国大会では
3位になりました

僕は団体戦では
1回も負けたりしませんでした

高校の時に負けたのは
同級生の杉野君だけでした
彼とは小学・中学と何回か
試合してきましたが
お互いに勝ったり負けたりで
そんなに差はありませんでした

ところがインターハイ南部地区予選の
個人戦で71Kg以下級の決勝戦で
判定負け
福岡県予選決勝で有効で負けて
九州大会決勝で技有で負けました
約1ヶ月で同じ相手に3連続で負けたのは
初めてでした

杉野君はインターハイでオール1本勝ちで
日本一になりました
杉野君がインターハイで優勝するのでは
やっぱり高校柔道のレベルは大したことは
ないと思いましたが
実は2人して高いレベルまで登っていたのでした
杉野君が言うには全国の誰よりも
僕が1番のライバルだったそうです

夏の金鷲旗で団体戦は終わりました
後は個人のタイトルで
全日本ジュニアの体重別の
試合が残っていました

僕の適正な階級は65キロ級
(オリンピックで金メダルを取った
内柴選手と同じ階級)
高校ではない階級です
杉野君は71キロ級
僕と杉野君はそれなりの
体重差がありました

65キロ級は僕のベストの階級だと
以前から思っていました
でも団体戦に出る為に
体重を増やしていた僕は金鷲旗が
終わった時点で80キロ弱
体重別の試合があるのが1ヶ月後
15キロの減量ぐらい
簡単だと思っていました
実際、普通に練習して
普通の食事をしていたら
2週間で苦も無く
70キロまで落ちていました

あと2週間で5キロの減量
以前と違ってかなりの筋肉が
付いていたので
これからがキツイと思い
食事制限をしていきました
試合1週間前で67キロ
これはちょっと落とし過ぎていました
毎日家に帰って体重計に乗って
今日は落とし過ぎたと思ったら
自分のご褒美にビール大瓶
1本飲んでいました

食事はほぼ毎日
鰻を食べていたような気がします
あとはステーキとか
高カロリーの物
残り1週間で2キロ落とすのが
簡単なようでなかなか落ちません
毎日かなりハードな運動をして
食べれないのが辛いです
限界以上に食べないといけない
苦しさを100としたら
食べれない苦しさは120ぐらいだと思います

絞りきった体は無駄なところがなく
全身を筋肉の衣でまとってました
体脂肪率一桁
タバコも一日三本までに減らしてました


全日本ジュニア体重別の試合は
20歳以下が対象で
社会人・大学生・高校生が出ます
高校3年生になった時から
この試合で3位以内に入るのが
目標でした
3位以内に入ったら
全日本の強化選手に選ばれるからです
(高校生では数人しかなれません)
自身はありました
九州では余裕でチャンピオンに
なる事も信じていました
それは自分なりにかなりの練習をしていて
試合でもそれなりの結果を出してました
それに強い大学生はみんな
東京の大学に行っていたからです

まずは福岡県予選
大した相手はいませんでしたが
ただ僕の先輩が福岡大学にいて
試合の前に僕に負けてくれと言ってきました
僕はハイッとニコッと笑って言いました
試合が始まって10数秒で
先輩を畳に叩きつけて終わりました

九州大会でも相手はほとんど大学生でしたが
僕との力の差が離れすぎていて
思っていたように
九州チャンピオンになりました
高校生でも全日本のトップクラスを
目指そうと思っていたら
九州の田舎学生に
手こずってはいられません

もうこの頃には大学からの誘いも
ありましたが
僕は進学の事は
全く考えていませんでした
柔道で大学に行ったら
就職先は警察か教員
または柔道部がある大企業です
僕にとって教員など
出来るはずがありません
警察もそうですけど
もしそんな所に就職したら
不祥事を起こして
新聞の三面記事に
載るかもしれません
大手企業もそうですけど
組織の中でうまくやっていく自信も
ありません

先生やその他いろいろな方に
大学に行くよう説得されましたが
僕は、高校に行けただけで十分です
と言って断りました
それにもう柔道は十分に
やったつもりなので
高校で終わりにしたいと
思ってました

全日本の試合は1,2回戦は難なく勝ち進み
準決勝まで行きました
3位決定戦が無いので
もうこの時点で3位確定
目標達成しました
準決勝の相手は
今までとレベルが違い強かったのです
僕も目標達成していたので
それ以上のパワーが出ませんでした
結果は、僅差の判定負けでした
やはり日本のトップクラスは動きが違います
でも僕も互角に戦えました
もしこの大会で優勝していたら
柔道を続けていたかも知れません



高校卒業後の進路は何でもよかったのです
その時僕の兄が
神戸のフランス菓子の店で
修行していたので
そこの紹介で
東京のフランス料理店で
スタッフを探しているという
話があったので
何も考えず迷わず決めました

                次回に続く……

福岡に帰って来た理由⑮

約10年ぶりの帰省で
忘れていたものを
気付かされた感じでした
また、両親も老いて
兄だけに任せるのも申し訳ない
僕は実際何も出来ないけど
近くにいて安心させたいと思いました
また、昔の友人に会い
東京では無い温もりを感じ
福岡に戻って来ようと思い
実家を後にしました

僕の仕事柄から
田舎では商売がうまくいく
見込みもないので
大都市の福岡しか考えられません
頼る所はただ1人
高校の時は可愛がられ
かなりいじめられた
先輩の藤丸社長しかいませんでした

藤丸社長の噂は聞いていて
福岡ではかなりの成功をされている
実業家
でももう、20年近く会っていませんでした
僕が東京に帰る昼に電話して
今日の夜帰りますと言ったら
是非会いたいと言われました
かなり多忙なのに
僕のために時間を作ってくれたのです

20年ぶりに会う先輩は
見ただけでスケールが
大きくなっているのが分かり
貫録も十分
体も一回り大きくなっていました
僕が福岡に帰ってきて
店を出したいと言ったら
是非帰ってこい
俺が何でも協力する
と力強い、頼りになる言葉をもらいました




東京に戻ってから本屋で
福岡市内の地図
福岡の情報誌を買い
本当に福岡に帰ってきて
やって行けるのか考えました
一時的な感情で
福岡に帰ろうと思ったので
もっと冷静になって考える必要があると思い
いろいろ考えていったら
どうしても東京を離れるのは
僕にとって分が悪いように
思えてなりません

福岡は大都市なのに
人が少ない
天神の駅周辺しか
人が居ないイメージ
それに20年以上も東京に居たら
それなりに友人も
仕事関係の知人も出来
何をするにもやりやすい
それに以前店をやっていた時の
常連のお客さんとも
数多く交流があり
食事したりもしている
店を出したらまた来てもらえる
そんな事を色々考えたら
東京でやっていった方がいい

それに友人と食事しているときに
もしかしたら福岡に帰るかもしれないと
ボソッとこぼしたら
皆に反対されて
自分が悪い事をしているような
感じになりました

東京に帰って1週間もすると
福岡に戻る事など
頭の中からスッカリ無くなってしまい
いつもの生活に戻っていました

時間がたっぷりあるので
気晴らしに
いろいろ旅にも行った
去年の6月7月でした




         このブログを東京の友人が
         数多く見ているようで
         よく電話やメールがきます
         俺の事は書くなとか
         店の名前は出すな
         いろいろ言ってきます
         実名、店名などは出さないのでご安心を


                  次回に続く…