福岡に帰って来た理由⑯

高校を卒業してすぐに上京して
青山にあるフランス料理屋に
就職しました
柔道の試合で何回か
東京には来ていたのですが
やっぱり東京は凄い

人の多さに圧倒されました
柳川と大牟田しか知らない僕は
こんなところでやって行けるのか
不安になりました

それに近くに誰も知り合いが居なく
知っている人と言えば
職場の人たちしか居ませんでした

東京に出て来て
一番困ったのは
言葉の壁でした
柳川の方言しか話せない僕は
変な標準語になってしまいます
それに思いっきり
訛ってました
それを先輩達に真似されて
いつもからかわれていました

フランス料理店に入った僕は
半年間はずっとホールで
サービスをしていました
サービスと言っても
僕の場合は
料理の運び屋でした
キッチンから客席まで
料理を運ぶだけ
お客さんのテーブルの近くに
行く事はありませんでした
支配人から
お前はお客さんと話すな
と言われていました
それは
田舎の訛りで話されたら
店の雰囲気が
壊れるからだったのでしょう

初めは店のメニューを見ても
何が何だか全く想像できませんでした
洋食と言えば
ハンバーグ・トンカツ・スパゲッティ
マカロニグラタンぐらいしか
思い浮かびません
それにメニューに写真も載っていなくて
サンプルも無いので
イメージが湧きません
それにフランス語で書かれていて読めず
日本語でも書いてありますが
なんか詩のような料理名で
漢字も読めず意味も分かりません
値段だけは分かり
コースで15,000円
アラカルトで5000円とか8000円とか
びっくりするような値段

でも出てくる料理は
今まで見た事もないような物で
どれも美味そう
匂いだけでも満足ですが
どんな味がするのか知りたくて
いつもお客さんの下がった皿を
いつも舐めていました

フランス料理にはワインは
欠かせません
ワインリストが電話帳みたいに厚くて
中を見ると
フランス語と数字しか載ってなくて
それだけで参りました
お客さんからワインの
注文があると
ソムリエに指示されて
僕は地下のカーブ
(ワインがストックされている所)
へ走ります
右から2列目の
手前から4番目の上から3段目の
ワインを持って来いと指示されます

カーブには3万本のワインが
ストックされていて
いつも迷います
よく間違って
違うものを持って行き
怒られました
でも間違っていたのも
1ヶ月ぐらい
ワインはいっぱい置いてあるけど
その産地ごとに並べてあるので
勉強したらすぐに分かります

東京に行ってからすぐに
今までしていなかった勉強を
メチャクチャやりました
毎日が受験生みたいに
ありとあらゆる物を

福岡にいるときは
バカで頭の中が空っぽだったお蔭で
詰め込んだら詰め込んだ分だけ
入っていったような気がしていました

フランス語が分からないと
仕事にならないと思い
先輩に相談したら
お前はフランス語よりも
日本語を覚えなさい
と言われました

初めにした事は
新聞を読む事でした
でも漢字・意味が分からないので
辞書を買い
1つ1つ辞書を引きながら
新聞の隅から隅まで
これを丸2年間はやり続けました
そうすると政治や経済
国際情勢なども何となく
分かるようになりました
それに本をいつも読んでいました

それと同時進行で
料理書、和洋中
あらゆるジャンル
ワインの本
それにフランス語
はやく1人前の大人になりたかった
自分に自信を持ちたかった
体力ではなく
ある程度の知識が無いと
対等に会話も出来ない
2年経った20歳の頃には
その辺りの
バカ学生並みの知識が
付いたような気がしてました

          次回に続く……

福岡に帰って来た理由⑰

東京での住まいは
店から電車で乗り換えて
1時間弱の小田急沿線の
向ヶ丘遊園
学生の街で
安いボロアパートも
いっぱいあります
僕が借りた部屋は
風呂なし6畳一間で
2万5千円でした

1人暮らしするのは初めて
近くに友達もいないので
すぐにホームシックになり
東京に出てきた事を
悔みました

1ヶ月もすると
孤独に慣れて
職場の人たちとも
いろいろ話が出来て
東京の生活に
馴染んでいきました

初めての給料は7万5千円
何も出来ない僕がこんなに貰って
いいのかとビックリしました
今までアルバイトはした事は無く
給金を頂くのも初めてで
嬉しかったのを覚えています

先輩に財形貯蓄している人がいたので
僕も毎月5千円する事にしました
そしたら会社の総務の
お姉さんがやってきて
こんな安い給料で
その上5千円も天引きして
生活は大丈夫?
と心配して聞きに来ました
僕は笑顔で
多分どうにかなります
心配していただいて
有難うございます
と田舎の訛りの言葉で言いました
その日から
総務のお姉さんたちが
僕に差し入れを持って来るようになりました
パンとか米、缶詰、食料品
その他いろいろ
有難い事です。助かりました

生活は実際かなりの貧乏でした
家賃、生活費、その他を除くと
1万円ちょっとぐらい
余ったお金はほとんど
本を買って無くなりました
風呂に入るのは
月に2回ぐらい
銭湯が280円ぐらいでした
いつもは家の小さい台所で
髪を洗ったり体を洗ったりしました
家から歩いて5分ぐらいのところに
100円シャワーがあって
週に1回ぐらい行きました
コインを入れて5分間しか
お湯が出ないので
家を出る前に髪とタオルを
濡らしていきます(寒い冬でも)
100円シャワーに着くと
まず、体と髪を洗いそれからコインを入れて
お湯のシャワーで流します
5分間はあっという間に終わります
僕にとって銭湯と100円シャワーは
贅沢でした

エアコンなんて無いので
夏はギリギリまで我慢して
窓を閉め切って寝ます
今日はもう我慢できないと思ったら
窓を開けます
そうしたら外から涼しい風が入ってきて
熱帯夜でも気持ちよく寝れました

休みの日に時間があったら
新宿のデパ地下に行き
試食、試飲してました
5,6件のデパートをハシゴしたら
腹いっぱいになり
ほろ酔いになります

先輩に飲みに誘われたら
絶対に断りません
いつもタダ酒を飲んでいました
タバコも自分では買わず
人に貰ってばかり
風呂に入りたかったら
無理言って先輩の所に
泊りに行き
風呂に入らせてもらっていました



東京に来て半年を過ぎたころに
やっと彼女が出来て
その娘にはよくして貰いました
近くに住む学生の娘で
僕より2つ年上
1人暮らしでした
そしてかなりお金持ちの
お嬢さんでした
その娘にとっては
僕みたいな男が周りにいなく
珍しかったみたいです

週の半分ぐらいは
そこに泊っていました
風呂もあって
エアコンも付いていて
冷蔵庫には食べ物がいっぱい
いつも僕のために
ビールが冷やしてありました
それに服とかいろいろ買ってもらい
かなり貢いで貰ってました

その頃フランス語の勉強を
していた僕は
彼女に頼んで
NHKのフランス語
ラジオ講座を録音
して貰っていました
外国語は寝ているときに耳にしたら
覚えが早くなると聞いたので
寝るときにいつも
フランス語講座を聞きながら
寝ていました
僕は仕事が終わって
疲れ果てて帰ってきて
床に着いたらすぐに爆睡
結局僕の頭の中には
入らなかったけど
隣に寝ていた彼女は
大学の第二外国語が
フランス語だったので
フランス語の成績が
よくなったみたいです

その娘とは卒業と同時に
別れました

          次回に続く……


福岡に帰って来た理由⑱

フランス料理店での
ホールの仕事は半年ちょっと
その間ずっと早く厨房に
入りたくてしょうがなくて
いつも厨房を覗いていました
いつもみんな忙しそうに働いていて
下っ端の先輩はいつも怒られていました

自分と年の近い料理人の先輩達と
よく話して「ホールは遊びだよね~。
俺は厨房に入らずホールの方が良かった」
とみんな言ってました
2~3か月に1人は辞めていってました
料理人の先輩が脱落する度に
僕は喜んでいました

厨房に早く入りたくてしょうがなかったけど
不安もありました
ほとんどの人は調理師学校を出ていて
実習で料理を作った経験があり
僕はそんな専門学校は出ておらず
野菜の皮の剥き方も分からず
飲食店での洗い物も
やった事はありませんでした

そこで休みの日に家の近所の
ファミリーレストランに飛び込みで
1日だけ働かして下さい。
何でもやります。もちろん無給でいいです。
と交渉しましたが
うちはそんな店じゃないからと
断られました
その話を次の日シェフにしたら
そんなにやりたいなら紹介してやると言って
店を紹介してもらいました

月に1,2回は休みの日にいろんな店に行って
洗い物や簡単な仕事をしていました
もちろん無給ですが,店で出している料理を
御馳走してもらってました。ワインも付いて

その後僕が料理人になってからも
いろんな店に月に1回は
手伝いに行きました
そこでは自分が働いてる店とは違う
料理のやり方とか知らない食材とか
使えて勉強になりました

それに何と言っても
知り合い、友達がいっぱいできた事です
そこで知り合った先輩達にはこの後
いろいろ仕事を世話してもらいました
僕と同年代の若い料理人とはよく飲みに行き
若い時はみんな厳しい所で
辛い思いをしてお互いに励まし合って
苦労を乗り越えて来ました
その時の仲間とは
今でも付き合いがあり
中には有名になった料理人もいて
よくテレビに出ていたり
ミシュラン東京の二ッ星シェフもいます

ホールの時は仕事は楽で
お客さんに気を遣う仕事もやらせてもらえず
余裕があったので,その時に
運ぶ料理を目に焼き付けて
後でノートに料理の絵を書き写して
その料理名をフランス語で
使っている材料やソース
調理方法なども一緒に書いていました
全てフランス語で
ランチが週に一回
15品ぐらい
ディナーが月に一回
30品ぐらい変わっていたのを
全部ノートに書き写していました
(その時のノートは今も持ってます)

夜は家に帰ってから
フランス料理の本を読み
何となく理解出来たら
その作り方、レシピを
ノートに書き写します
1日に料理3品
1ヶ月で分厚い料理本書
1冊を書き写していました

料理人として厨房に入るまでの間に
フランス語での料理用語
大体の料理の知識は分かっていたつもりでしたが
やっと料理人としてスタートして
厨房に入ったら思っていたより
すごく大変な所でした

             次回に続く……

福岡に帰って来た理由⑲

朝は8時出勤
初めはすぐ上の先輩について
僕がやらないといけない事を
教えてもらいました
何かの仕事を任されるというより
ほとんど雑用
使いパシリでした
どこに何があるか覚えるだけで
頭がいっぱい
8時から順々に
先輩達が出勤してきて
最後にシェフが出勤してくるのが10時

シェフが出勤してくるまでに
10人ぐらいの先輩が出勤して来ます
そこで一人一人にモーニングコーヒーを
出さなくてはいけませんでした
飲み方の好みがみんなバラバラで
ホットであったりアイス
砂糖入り、あったかい紅茶
アイスティー、麦茶、ホットミルクなどなど
その人に合わせて
出勤したらすぐに出さなければいけません
大体どの先輩が何時頃出勤して来るか
分かるので用意はしていますが
それが気になって自分の仕事が
手に付きませんでした

このモーニングコーヒーの
先輩達への気遣いは
お客さんへの気遣いと
通じるところがあり
10年後にあのモーニングコーヒーで
鍛えられた事が良かったと気付きました
先輩に言わせると
僕ほど完ぺきにやったのは
居なかったみたいです
それは高校時代に先輩に
いじめられて分かった事です
先輩の機嫌が悪いと
自分に返ってくる
だから朝は元気な笑顔で
おはようございますと言って
モーニングコーヒーを出したら
先輩達は気持ちよく
仕事が始められます
それが僕の1日に反映してきます

少し慣れてきたら
前の日の夜に皆で飲みに行って
みんなベロベロに酔った次の朝は
怒られるのを覚悟して
勝手に味噌汁を作って用意してました
でもこれが大好評で
怒られる事はありませんでした
ただ僕のすぐ上の先輩は
それから口も聞いてくれなくなりました


料理人の世界は厳しい
それは分かってこの仕事に就きましたが
やはり辛い
料理の事は何も知らないので
先輩達に教えて貰わないと
何も得られない
無理な事を言われても
言う事を聞かないと
仕事が覚えられません
だから先輩に頼まれたら
なんでもやっていました
その代わり上の先輩達には
可愛がられました
いつも飲みに連れて行ってもらったり
包丁を貰ったり
料理書を貰ったりしていました

僕の事を気に入らない
下の方の先輩達もイッパイいました
仕事の嫌がらせや
わざと間違った事を教えられたり
いろいろありました
でも僕は何も言えません
自分自身で分かっていましたが
僕はかなり不器用で何をしても上手くいかず
野菜を同じ大きさに切る事も出来ませんでした
先輩に怒られるのも当たり前


初めは8時出勤でしたが
8時に行ったら自分の仕事が出来ないので
いつの間にか始発の電車に乗っていき
6時に店着いて
自分の仕事をしていました
8時になったら先輩達が次々と来て
先輩達の使いパシリばっかり
それからずっと
夜のディナーが終わるまで
動きっぱなし
休憩する時間はありません
飯を食べる時間ももったいなく
立って仕事しながら食べていました
10時ぐらいになったらシェフとか
先輩達が帰っていきます
それからやっと自分の仕事が
出来る時間がやってきます
終電に間に合うまで
やって帰ってました

この時19歳になったばっかりぐらい
体重は60キロを切っていました
ウエストも70cmのズボンががぶがぶ
一番痩せていた頃です

           次回につづく……

福岡に帰って来た理由⑳

朝から夜までずっと洗い物
100席分の洗い物を
ほとんど1人でしていました
皿・グラス・カトラリーは
食器洗浄機があるのでいいですけど
鍋を洗うのが大変でした
ソースのこびり付きはなかなか落ちません
寸胴鍋は洗う面積がいっぱいあり
1つ洗うだけでかなりの
パワーが要ります
1日に大きな寸胴(ドラム缶みたいな)を
7・8個は洗っていました
夜のラストオーダーが終わったら
鍋磨きをして毎日
ピカピカにしていました

厨房に入って1ヶ月もしないうちに
両手が真っ黒になって
至る所にひび割れが出来て
ボロボロになりました
手が荒れているのを
先輩に見つかったら
仕事がやってきました
肉を塩漬け、野菜の塩揉み
レモン絞り、グレープフルーツ絞り
手の割れてる所に沁みて
痛くてたまりません
でも忙しすぎて
痛いと言っている暇はありません
痛みをこらえガムシャラに仕事していたら
手荒れはいつの間にか治っていました

店の中にキッチンが3つあって
メインのキッチンとパティシエの部屋
もうひとつはフォン(だし汁)や
ソース作ったり肉・魚を捌いたりする
仕込みのキッチンがあります
メインのキッチンと仕込みのキッチンは
20mぐらい離れていて
1日に何十回も往復します
中身の入った重たい
寸胴も運ぶ時もよくあります

僕はいつも営業時間以外は
仕込みのキッチンにいて
魚のうろこを取り
頭をおとして内臓をとり除いて
きれいに掃除する所まで
鶏や鴨の羽毛をむしり取り
内臓を取り除くところまで
汚い仕事ばっかり

そして重労働で熱いソース・フォン
を漉す仕事
仕込み用のキッチンには
常に10個以上のソースや
フォンがコンロの上にのっていて
火にかかっていました
どれが何のソースなのか
初めのうちは分かりませんでした
フォン・ド・ヴォー、フォン・ド・ヴォー・ドゥーブル
フォン・ブラン、コンソメ、コンソメ・ドゥーブル
ソース・ボルドレーズ、ジューダニョー
フォン・ド・カナール、ソース・アメリケーヌ
フューメ・ド・ポワソンなどなど
毎日それを漉すのが
僕の仕事です

ソース・ボルドレーズを漉してくれと言われて
フォン・ド・カナールを間違えて漉したら
メチャクチャ怒られました
同じ褐色のソースで
よく分かりませんでした
僕がよく聞いて確認しなかったのが
悪かったと思います
その時僕の横で、下っ端の先輩は
無言でニタッと笑いずっと見ていました
たぶん僕が間違っているのを
分かっていたのだと思います
僕が怒られているときには
その人はどこかに逃げていました


仕込みの時にミキサーを洗っていて
ガラスのカップが鍋に当たり
割ってしまいました
その時に割れたガラスで手を
グサリと深く切ってしまい
ドクドクと血が勢いよく
流れ出て来ました
自分が怪我した事より
ミキサーを割った事がショックで
「すみません。ミキサー割りました」
と大声で言ったら
返って来た言葉は
「バカヤロー。明日のポタージュ
どうやって仕込むんだ!」
僕は手から血をポタポタ落としながら
ただひたすら
謝るだけでした
その後すぐに病院に行きました
その時僕のケガを心配してくれた人は少なく
ミキサーの方が大事
だったのだと思います

面白い所に入ったな
つくづく思いました

            次回に続く………



 

福岡に帰って来た理由 21

厨房に入って半年間の間に
僕のすぐ上の先輩が次々に
2人辞めていきました
僕が何かしたわけではありません
いろいろ大変だったのでしょう
僕もいじめや、嫌がらせなどありましたが
高校の時に比べたら可愛いものです
もう我慢できないと思ったら
4,5人まとめて束にして
吊るし上げようと思ってました


上2人が居なくなった分
その仕事がほとんど僕に回ってきて
新たな人の補充も無く
ますます大変になりました
食材の発注も任される事になりました

ある日肉屋の発注で僕がミスをして
肉が届かなかった時には
額に油性マジックの太字で
大きくと書かれました
まるでキン肉マンみたいに
それで肉を買ってこいと言われました
恥ずかしさもありましたが
自分のミスだからどうにかしないといけない
想いがあり走って行きました
東京には変な人がいっぱいいるので
僕もその中の1人になるだけ
顔を見られても、人がいっぱいいるので
一生会う事は無いだろうと
自分に言い聞かせて
246青山通りを走りました
青山の高級スーパーでレジ待ちしていると
お金持ちのオバサマが見て見ぬふりを
していました


この頃僕をよく殴る気が狂った先輩が居ました
その人は僕より5つ上で
昔空手をやっていたみたいです
毎日顔や体を殴られ
蹴りもありました
それが嫌でたまらなく
「1日3発までにしてください」
と言ったら
お前なめているのか
その顔ボコボコニして潰すぞ!
と言われました
この時,とうとうやる時が来たなと思いました
「僕は、もともとブッくずれた顔をしているので
どうぞ!ただ3発までにしてください
それ以上やったら、僕があなたを
死なない程度にやってあげます」
と言ったら
何もありませんでした
その後その先輩から
殴られる事はありませんでした


仕事は人が居なくなった分
いろいろやる事が出来て
魚を3枚におろしたり
オードヴル・サラダを作ったり
お菓子も少し作るようになっていました

でもどれもうまくいかず
僕は不器用だから料理の仕事なんて
向いていないのではないかと
悩み始めていました
高校の時は柔道が思った通りに出来て
面白いように勝てたのに
料理の世界ではどんなに考えても
自分なりにかなり努力しても
思い通りにならない
悔しくてしょうがありませんでした

この時僕と高校時代に柔道で頑張って
競いあっていたやつは世界大会や
オリンピックに出て
活躍していました
今の自分が情けなく
思えてなりませんでした

大牟田に帰って先生にお願いして
大学に入れて貰って
もう1度柔道で世界を目指そう
今だったらまだ間に合う
そう思っていました

過去の栄光を捨て
明日の栄光に挑む
その心情で東京に出て来たのに
過去を引きずっている
自分が恥ずかしい

初めての挫折
もう限界だと思っていました
料理の世界は諦めた
シェフにも説得され
まだ1年もやっていないのに
諦めるのは早い
柔道は何年で結果を出せたのか
と言われました
また先輩にいじめられたのも
知っていたみたいで
僕が手を出さなかったのを
ある意味ほめていました
この時店の2番シェフが
六本木に移ってグランシェフになるので
僕を是非連れて行きたいと言われたので
もう1度料理の道に
トライする事にしました

         次回に続く………

福岡に帰って来た理由  二十二話

バブル真只中の六本木は毎夜、
朝までお祭り騒ぎみたいに
人があふれていました。

そんな時に六本木で働くようになって
仕事が終わってから朝まで遊び
よく店に泊っていました。
六本木の店ではなぜか給料が
前の店よりだいぶ上がっていました。

それに僕の仕事はなんと
ソシエ(ソース担当)で厨房の中で
一番重要な仕事を受け持つ事になりました
ただシェフがソシエを兼任していたので
僕はシェフの助手みたいなものでした。
でもシェフは忙しく動き回るので、
ほとんど任されていました。

フランス料理の厨房での中では
シェフがオーダーを読み上げると
みんな一斉に動き出し
肉を切り出しする人
魚を焼く人
オードブルを作る人
付け合わせの野菜を用意する人
飾り付けする人
皿を拭く人など色々
オーケストラみたいな感じ
その全てを指揮するシェフ
その中でもソシエは花形

どうして僕にそんな大事な
仕事を任せるか分かりませんでしたが
シェフは前の店で、
僕の仕事ぶりを見ていたみたいで
見込みありと判断されたみたいです
前は僕がやっている仕事が
空回りしていてポイントがずれている
教え方しだいですぐに出来るように
なると言われました

それからずっとシェフにべたっと
くっついて教えられた通りに
仕事をしていきました
まわりのスピードが速すぎて
付いて行くのがやっと
自分の許容量を超えていました
でもここが踏ん張り所
もう負けられない、やるしかない
毎日の訓練で日々反省して
同じ失敗を二度としない
柔道の時より気合いが入っていました

どこのフランス料理店でも
19歳の若者がソシエをしている店は
なかったと思います
先輩から妬まれたりしていましたが
シェフが決めた事だから
誰にも何も言えません
それに、ここでは僕に対する
いやがらせはありませんでした
他の若いスタッフは
色々やられていて
辞めていく人もいました

僕はこの店ではシェフが引っ張って来た
料理人という感じでした





若い時に東京のフランス料理店は
いろいろ働きましたが、
客単価が上るにつれて
厨房の仕事に対する
厳しさも上がっていきます、イジメも

今は昔みたいな厳しい店は
あまり見かけませんが
優しくもありません
もともと料理人という職業は
大昔(明治時代)は
ヤクザ者の仕事だったみたいです
そんな厳しい職場では
若い料理人の半分以上は
辞めていきます
そのほとんどは調理士学校卒です

調理士学校も料理だけを
教えるのではなく
料理の世界での厳しさ
礼儀を教えた方が役にたつと思います
学校で料理を習っても
実際現場では
全く違うやり方であったり
作る量が大量で工程が違ってきます
それに教える先生も
現場経験者が少なすぎます
以前、僕が調理士学校に
講師として招かれた時
先生達と料理の打ち合わせしたら
どうも話がかみ合わない
この人達はプロの料理を知らない
楽しく家庭の料理のレベルでした

プロの料理人を志すなら
高いお金を払って
調理士学校に行くよりも
少し厳しい店で無給で
1年間働かせてもらった方がよっぽど
勉強になると思います
ただ、その若者の目的意識が
しっかりしていれば・・・・





六本木の店に来て3ヶ月もすると
料理が分かってきて
出来るようになってきました
毎日ずっと勉強していたので
知識はある程度ありました
でも頭でっかちで実技が
伴っていませんでした

なんか分からないけど
気づいたら、ある時から
いきなり仕事ができるように
なっていました
僕の考え方が変わったのかもしれません
例えば人参を縦に置くか
横に置くか、ただそれだけの違い
それで物事がすべてうまくいく
なんか不思議な感じでした

それから料理がおもしろくなり
どんどんのめり込んでいきました。

料理の中ではフランス料理が
一番だと思うようになりました
フランス料理の技法は
素晴らしい物がいっぱいあり
フランスの大地、歴史が
その技を作り上げたのだと思い
フランスに行きたい
フランスで働きたい
と思うようになりました

また料理は素材を調理し
その化学変化で
その味が出来上がります
料理を知るには科学も
必要だという事が分かりました

次回につづく・・・

福岡に帰って来た理由   23話

ソシエの仕事は、
仕込みがあまりありません
フォンドウ゛ォーやコンソメなど
ソースの素を仕込みますが
骨を焼いたり野菜を切ったりして
寸胴に入れるだけ
火にかけて沸騰する寸前が
勝負時,よく灰汁を取ります
あとは火と時間が勝手に
作ってくれます

フォンを漉すのが重労働で
大仕事ですけど、
それは僕より年上の
料理見習いの人がやっていました

空いた時間に自分が
やった事のない仕事
パテやテリーヌ
肉・魚の仕込みの手伝いをして
お菓子もよく作らせて
もらっていました

ソシエの仕事は仕込みが少ない分
営業中にオーダーが入ってからが
めちゃくちゃ忙しい
厨房の中で一番大変な
ポジションです

一つのコースで5種類位の
ソースを用意しなければなりません
その他に同時に
アットランダムに違うコースや
アラカルトが入ってきます

ソースだけで20種類位
頭の中がグシャグシャになります
ソースはある程度仕込んでいますが
完成品ではないので料理を
出す寸前に素早く仕上げます
一品作り出しても
次から次と出していかなければ
なりません
それに新しいオーダーも
どんどん入ってきます
まるでゲームのテトリスみたい
一つつまずけば後が
どんどん苦しくなる
体の動きも大切ですが
頭の回転が速くなれば
やってられません
頭を使うハードなスポーツです

単価の高いフランス料理のお店では
一品の料理を出すのに
4~5人の人が皿に
おそいかかるようにして
一瞬で盛り付けて
仕上げていきます
そんな時、人を押しのけてでも
入り込まないと仕事になりません

料理人は体力・忍耐
ずうずうしさを持った
ふてぶてしい心がないと
やってられません
技術・味覚は毎日の仕事で
どうにかなります



仕事は盗んで覚えろと
よくいいますが
まさにその通り
ほとんどの料理はだいたい
教えてもらいますけど
それは自分の担当の仕事だけ

先輩がやっている仕事を
覚えようと思ったら
その人に自分が好かれていないと
教えてもらえません
教えてもらえないなら
その仕事をずっと見て
盗もうとすると
見られている先輩はわざと
いつもと違うやり方や
間違った作り方をします

だから僕も自分の仕事をしながら
顔はその先輩の方に向けず
横目で見て盗んで
覚えるしかありません
僕は視力がよく視野も広いので
盗んでみるのは得意でした。
(盗んで見るのは仕事だけです)




六本木の店に来て
一年がたとうとする頃に
フランスに行きたくてたまらなく
なっていました

フランスの小説を読み
フランス映画をよく観に
いってました
フランス語も勉強してましたが
仕事で使う程度
調理場の中はすべてフランス語
仕事中の会話もフランス語と
日本語が半々
日本で仕事するのは
問題ないけどフランスで
仕事するようになったら
今のフランス語力では通用しない
フランス語の学校に行くしかない
でもお金も時間もない
フランスに行きたくても
旅費をもってない

このとき二十歳
なんでも出来ると
思い上がっていました



次回につづく・・・

福岡に帰ってきた理由    24

22歳までには
フランスに行こうと
漠然と思っていました
店にはよくフランスから
帰って来たばかりの料理人が
遊びに来ていました

うちのシェフは3年前に
日本に帰って来て
それまでフランスで5年の
料理修業をしていて
その時にシェフに世話になった
人達が来ていました

それとこれからフランスに行くので
三ツ星の店への紹介状を
書いてほしいと言って来る人も
いまし

僕はフランス帰りの
先輩の話を聞きたくて
シェフのお客さんが来たら
仕事を早くすませて
ずっとシェフの横に
くっついていました

フランスの話を聞いたら
どんどん夢がふくらんでいって
今にでもフランスに飛んで
行きたい思いになっていました

もうどうにも気持ちが治まらず
思い切ってシェフに自分の想いを
ブチまきました
「フランスに行きたくてたまりません
でもお金を全く持っていません
飛行機のチケットも買えません
給料をいっぱいもらえる仕事を
紹介して下さい」

この時3時間位はシェフに
説教されました
まだ早いと言われましたが
僕も折れなかったので
シェフもあきらめて
仕事を紹介してもらう事になりました

僕はどんな仕事でもいいです
いっぱいお金をもらえれば
でも料理しかできません
と言ったら
虎ノ門にある居酒屋を
紹介してもらいました

今まで仕事は
フランス料理の店でしか
働いた事ははなく
少し違った世界に出るのも
楽しみでした

結局、フランス料理を
まじめに修行したのは
この店が最後になりました

この後は自分で研究して
いろいろ作り出す事になりますが
この約2年間に
吸収した技術・料理感が
僕の料理人としての
原点になりました



この年は今までで日本が
一番景気がよかった年
かもしれません
年末には東証日経平均株価が
4万円にせまる勢い

求人情報誌のフロームAは
電話帳ぐらいの厚さ
どこも人手不足で
世の中がうるおっていました




虎ノ門は官庁街
その他、大手企業のオフィースが
立ち並ぶビジネス街
その中にある居酒屋
朝は9時前に出勤
帰りは深夜の1時か2時ぐらい

ランチは手打ちのうどんの
関西風を売りにして
単価800円~1000円ぐらい
それで1日
120人~130人ぐらいの来店
夜は普通の赤ちょうちん
30坪の店で
月商1千万円
しかも土・日・祝は休み
かなり忙しい店でした

調理場の板前は
僕を含めて3人
自分では仕事ができると
思い込んでいましたが
板場のスピードについていくのが
やっとでした

料理は和食、刺身、天ぷら
煮物、手打ちうどん
今までやった事ない料理で
おもしろい

フランス料理と全く違う
大衆店でしたが
料理はちゃんとしていて
どれも美味しい

こういう店もあるのだと思い
興味が出て来て
なによりも商売というのを
この店の人達は
考えていました

今までの僕の頭の中に
なかったもの
新鮮な感じでした
将来自分の店を
持ちたい想いはあったので
料理だけではダメ
商売の事も勉強しないと
いけないと思いはじめてました




世の中はバブルで
おかしくなっていて
遠いヨーロッパでは
ベルリンの壁崩壊で
ニュースはそればっかり
僕の頭の中は
フランス料理へのこだわりの壁が
崩壊しかけ
はじめていました



次回につづく・・・

福岡に帰って来た理由  25

居酒屋で働くようになって
フランス語学校に週1回
通うようになりました
どうしても僕は学校の
授業というのが苦手で
机に着いたらすぐに眠たく
なってしまいます
                 
家では一人で
勉強だきるのですが
学校というのが僕に
合わないみたいで
一ヶ月で行くのをやめました
半年分の授業料を
先払いしたのがもったいない
あとは自分で勉強するしかない

生活も少しレベルアップして
銀座から徒歩圏の
高層マンションに住むように
なりました
そのマンションは居酒屋の
社長が投資目的で購入したもので
空いているので格安の賃料で
住まわせてもらいました

ワンルームでしたが
4千万円で買ったのが
1年たったら6千万円に
なっていたそうです
社長はもう少し上がると思って
僕を住まわせて小銭を
稼いでいました
あの時に売っていれば
よかったのに・・・・




居酒屋の仕事は忙しく
ランチのうどんに天ぷらが
付くので、僕はずっと天ぷら
ばっかり揚げていました
昼間の2時間は天ぷらを
揚げっぱなし
初めは油に酔って気分が
悪くなる事もありました

ランチが終わったら
休憩なしで夜の仕込み
夕方5時の開店までに
冷蔵庫の中を
パンパンにします

作り置きできる物はすべて
器に盛り付けて
冷蔵庫に入れて置きます
冷やっこ50人前
おしんこ80ヶサラダ30皿など
売れると思うものは
ほとんど用意しておきます

冷蔵庫に入りきらないぐらい
用意していたのに
夜10時頃になると
全部なくなります

それから12時のラストオーダー
まで大変で掃除、後片付けをしたら
帰りは午前2時ぐらい
それから6時間ぐらいたったら
また出勤していました
忙しい毎日で料理を
作るような感じではなく
土方みたいな感じでした




その居酒屋は
カウンターキッチンだったので
お客さんと話をする事も
よくありました
お客さんの話を聞いていたら
難しい話をみんなよくしていました

ほとんど仕事の話でした
役人のお客さんが
多かったですけど
大手ゼネコン・商社のお客さん
会社の名前を聞いたら
誰でも知っているような
会社ばっかり

ホールのマネージャーは
お客さんといろいろ難しい話しを
気軽にしていました
どうしてそんなに難しい話を
出来るか聞いたら
経済新聞を毎日読んで
いるそうでした

それから僕もヒマをみて
経済新聞を読むようになりました
そうしたら新聞の記事と
お客さんの顔が結び付く
ようになりました




お金を貯める為に
居酒屋で働くようになったのに
一年間働いても
ほんの少ししか貯金は
出来ていませんでした

今までお金を使う事を
あまり知らず
居酒屋に来て
給料をいっぱいもらうようになり
今まで欲しくても
買えなかった物が簡単に
手が届くようになったので
バンバン使いまくっていました




その頃先輩から話があり
カフェレストランで
お菓子を作るパテシィエを
探しているとの事だったので
二つ返事で僕がやりますと
言いました






次回につづく・・・

福岡に帰って来た理由  26

ティラミスが
一世を風靡していた
90年代はじめ
僕もずっとティラミスばっかり
作っていました
作ったらすぐに売れて
なくなるような状況でした

その火つけ役となった
雑誌Hanakoの影響は
流行を左右し
若い女性の
バイブルになっていました


朝から夜まで
ずっとお菓子作り
今まであんまりやった事が
なかったので
いつかはお菓子を
勉強したいと
思っていました

そこの店に行ったら
誰かに教えてもらうのではなく
自分でいきなり作らなくては
いけませんでした

それなりの給料をもらうので
作れませんとは言えず
やるしかありませんでした

僕も菓子作りは
全くの素人ではなかったので
なんとかなりました
でもレパートリーは少ない
本を見て勉強し
試行錯誤しながら
色々作っていきました


料理と菓子の違いは
料理は魚・肉・野菜などの
元々形あるものを
調理したらいいけど

菓子の場合は
小麦粉・卵・砂糖
はっきりとした形がないものを
加工し形づくらなければなりません

例えるなら
家をリフォームするか
新築で建てるか位の
違いがあります

それに分量を量るのが
面倒です
分量をはかり
材料を用意するだけで
菓子作りの工程の
半分は終わります
あとは機械が作り
オーブンが焼き上げてくれます


約一年間、菓子作りに
没頭していました
焼き菓子・生菓子・冷菓
だいたいやったつもりです

失敗もいっぱいして
自分なりにパティシエと
言えるようになった
つもりでいます

ただ我流でやっていったので
洋菓子の職人には
技はおとると思います
でもこの後
どこのレストランでも
僕のデザートはいい評価を得ました



菓子作りと平行して
この時にパスタも作っていました
世の中はイタ飯ブームが
やって来ていました

カフェレストランだったので
お昼にパスタランチを
やっていてランチ時は
毎日150食ぐらいの
パスタを出していました

今までパスタを作った事がなく
イタリア料理は
バカにしていました
フランス料理に
比べたら技がない

でもパスタだけは作れるように
なりたかったので
よく勉強して色々食べ歩いて
自分でもいろんなパスタを
毎日作り食べていました
そのせいで,僕のお金払って
食べたくない料理ベスト10に
パスタは入っています



この時に毎月20万円の
定期預金をしていてお金もたまり
いよいよフランス行きが
実現しようとしていました

ところがなんと出来ちゃった!

このままフランスに
逃げようかなとも思いましたが
フランス行きはあきらめました

年上の彼女は僕より稼ぎが
いっぱいあり広告代理店に
勤める作家の卵でした

「あなた1人ぐらい私が
食べさせていってやる!」
頼もしい事を前から言っていたので
なんとかなると思い、まだ若かったけど
結婚する事にしました

まわりからは、人生の失敗!と
さんざん言われました
できちゃった婚は
一般的に長くつづきません
僕も10年持ちませんでした




     次回につづく・・・



    福岡に帰って来た理由 27

去年の7月に話を戻します
仕事をしない
緊張感のない
毎日が続き
何かやりたい
仕事をしたいと思うように
なっていました

東京での物件探しは
してましたが
いい所が見付からず
気にいった所があっても
賃料が高く手が出ません

やっぱり福岡に
帰った方がいいのかな

でもその事は
東京の友人には
誰にも言えず
1ヶ月前に福岡に
帰ろうと思うと言ったら
みんなに責められて
それからその件は
言う事をやめました

今後の身の振り方を
1人で悩んでいました

何か今までとは
違う事をやりたい
でも僕は料理を作る事しか
出来ない
何か新しい事に
チャレンジしたい

東京では友人
仕事関係の知り合い
前の店の常連のお客さん
いろいろ協力してくれる人は
いっぱい、やりやすい

でもこのまま東京にいたら
自己嫌悪になってばっかり
僕はすごく我がままで
強気で無理な事を
平気で言い
それを強引に押し通す
身勝手なヤツでした
未熟な大人でした

40になっているので
もっと大人にならなければ
それには環境を変える
しかないかもしれない

福岡に行ったら
勝手がきかない
すごく大変かもしれない
はじめから道を切り開いて
いかなくてはいけない
若い時みたいに
もう少し謙虚な姿勢に
ならないと
誰も相手にしてくれない



でも新しい事にトライするには
今がチャンスかもしれない
今しかない!
福岡に帰る事を決めました

福岡に帰ると決めたら
今までお世話になった人や
友人・先輩にあいさつ
しなくてはいけない

東京に来て23年
いろいろな人と出会い
世話になり
そのお礼をしなくては
いけません
東京を離れたらもしかして
一生会う事もない人が
いるかもしれません

まずは北海道に行き
昔の友達に会いに
一週間の滞在
知床・富良野・日高・小樽
ゆっくり一人旅

そして久しぶりの札幌
町の中を歩きまわり
なかなかいい感じ
この町は住んでみたい
気がしました

夏だからよかったのでしょう
福岡となんか似たような
感じがしました
西と北の地方の大都市
でも札幌は歴史が浅く
そのせいか道が広い

友達は10年前に
実家のある札幌に帰り
フランス料理店をやっていました

僕も福岡に帰って
店をやりたいと言ったら
賛成してくれました
でも大変かもしれない
とも言ってました

東京と地方都市では違う
その苦労話を
延々と聞かされました
でも友人は10年前に帰って
来てよかったと言いました

僕も福岡に帰って来て
よかったと言えるように
なりたいと思い


その1週間後に
2回目の福岡への帰省

8月に入ったばかりの
一番暑い時に
福岡の町を歩き回りました
店舗の物件探しと
福岡での住居を
決める為に



        次回につづく・・・

    福岡に帰って来た理由 28

8月に入ったばっかりの
福岡は暑かった

総選挙の公示前なのに
選挙戦は活発で
たぶん最後の選挙となった
山崎拓さんと
握手したのを覚えています


今回、福岡に帰省した時は
高校の時の先輩の
藤丸社長が
福岡の町を車で
案内してくれたので
地理がよく分りました

天神しか知らなかった
僕でしたが
大名・赤坂・警固・薬院
淨水通り・白金・清川
春吉・中州
はじめて見る町でした

藤丸社長は
車で回りながら
この町はどんな感じとか
ここはランチを
やった方がいいとか
ここは金持ちがいっぱい
住んでるとか
いろいろ説明してもらいました

それに福岡の味のレベルが
分かるように、いろんな店に
ご飯に連れていって
もらいました

高い店は美味しい
安い店はそれなり
東京と変わりません

藤丸社長に、こんなに
親切にしてもらえるとは
思っていませんでした
高校時代がウソのようです
でも、すごく感謝してます



藤丸社長の紹介で
店舗専門の不動産会社に
行きました

今泉にある

(株)リーシングサポート
福岡市中央区今泉2-5-28-6階
092-736-8008
http://www.e-leasing.jp 

そこの社長は僕と同じ年の
吉住社長です

吉住さんは
藤丸社長の紹介なので
どういう人が来るのか
心配だったのでしょう
藤丸社長との関係を
いろいろ僕に聞いてきました

その他いろいろ質問され
何をやりたいのか
店の規模は
資金はあるのか
東京と福岡とは違う
福岡は厳しい!
福岡の飲食産業の動向を聞かされ
僕の気持ちを萎えさせ
吉住さんのペースに

はじめは入社試験の面接
みたいな感じだったのが
いつの間にか学校の先生に
怒られている感じになっていました

僕の事を何も知らないので
ガンガン言われっぱなしでした
福岡ではこんな風になるとは
思っていました

僕は何も言わず
ハイ・ハイと言って
ありがとうございます
福岡では大人にならないといけない
謙虚に謙虚に
今までみたいに怒鳴りちらしたら
誰も寄り付かない

吉住さんの会社は
物件を仲介するだけでなく
それより開業後の事を
一緒に親身になって考え
アドバイスしてもらいました

吉住さんにはいまでも
いろいろ相談にのってももらっています


福岡にいる間に何件か
店舗物件を見ましたが
どの町がいいのか
よく分かりません
ただ福岡は人が少ないので
人がいっぱいいる大名に
ひかれました

それと西中州
狭い路地があって
神楽坂に似ています
それに高そうな店が
いっぱいあり
いい感じに思えました




今回の帰省では
住居だけは絶対に
決めないといけませんでした

不動産屋に行って
10万円以内で50㎡ぐらい
(1人で住むにはちょうどいい)
を探してもらいました

出された物件はどれも10階ぐらい
僕は高い所がダメで
3階までで探してもらったら
赤坂、薬院、渡辺通りの物件では
ビル、マンションが密集していて
低層階は日当たりが悪い
自然光がたっぷり入る所を探したら
那の川でやっと見付かりました

東京でも同じ条件の部屋に
住んでいたのですが
東京の半値以下です
福岡は安い!じゃなくて
東京が異常に高いだけです


住む所も決めて
もう後には引けません
最後の東京での生活に
戻る為に
福岡をあとにしました




     次回につづく・・・

福岡に帰って来た理由  29

東京での最後の生活
23年間いた東京での後始末は
1ヶ月では短すぎました

毎日が僕の為に送別会を
やってもらい、この間の
飲食費は掛らなくてすみました

23年間のうち10年は自分で店を
経営していて約3年はペットショップ
自分で店を出す前の10年間は
いったい何軒のお店を渡り歩いたか
自分でもその数ははっきりしません


昔一緒に働いていた仲間は
半分くらいはいつも会いますが
あとはあまり会う事はありませんが
年に2~3回位は電話で情報交換や
近状報告などは、ずっとやっていました

その友達とも東京を離れたら
もう会う事は無いかも
最後に皆で集まってもらい
昔話で盛り上がり、送り出してもらいました

そんな酒の席がほとんど毎日
働いた店の数だけ飲み明かしました





初めて料理の全てを任された24歳
イタリアンのシェフになり
自分でメニューを書き、好きな料理を
作りまくりました

毎日メニューを変えて、やった事もない料理
も一杯作り、失敗も一杯しました
料理は好評で、店は繁盛していたと思います

土曜日の夜、レジ閉めも終わり
アルバイトも帰って社員四人で
ビールを飲みながらのミーティング

話の内容は競馬
そこで僕は皆に提案しました
金、土曜日の売り上げが80万円それを
少しの間だけJRAに預けて
それで美味い焼肉を食べに行こう

当時負け知らずで、連勝街道
まっしぐらのナリタブライアン
その単勝の一点買い
オッズは1,1倍まず絶対に勝つ事は
間違いない80万円突っ込んで
勝ったら
払戻金は88万円、8万円のご褒美
1人2万円相当の焼肉が食べれる
話は盛り上がりましたが
もし万が一
負けたら1人20万円の自腹

度胸のある奴は誰もいなく
焼肉は逃げて行きました






24~26歳までスポットで
ケータリングの仕事を手伝っていました
休みの時や夜中に
働いて小遣い稼ぎ

仕事の内容は様々
結婚式のガーデンパーティー
婚礼の2次会、会社の創立記念パーティー
ビルの落成式、法事などいろいろ


大型トラックの後ろに
厨房設備のあるコンテナを載せ

都内はもちろんゴルフ場
サーキット場など、どこにでも
行ってました


僕が手伝うと時は、その料理の
全てを任され1ヶ月前に
パーティーの内容を知らされて
メニューを書き、材料を発注して
夜中に仕込みをし
パーティーに合わせ
自分の休みを取り
仕事の本番




いろんな料理を作りましたが
アフリカのメンバーズクラブの
パーティーはメニューを考えるのに
悩みました

アフリカ料理など食べた事もなく
本屋に行ってもアフリカ料理の本もない
当時インターネットも普及しておらず
調べるすべがありませんでした

都内に一軒だけアフリカ料理
の店があったのでそこへ食べに行き
何となく分かり

あとレンタルビデオ屋に
行ってアフリカの
映画やドキュメント
を借りてきてアフリカの
食文化を少しだけ
見つけました

パーティーに出した料理は
ビュフェスタイルで
会議用の折りたたみテーブルを
くっつけて六畳ぐらいの
広さにし

その上にバナナの葉を敷き詰めて
その上に直接料理を盛り付けました

中央に子羊の丸焼き
その周りにダチョウのステーキ
ワ二の唐揚げ、ブリック(餃子みたいな物)
バナナのスープ、豆の煮物などなど

どうにかうまくいき、アフリカの
方にも喜んでもらいました

それから一度もアフリカ料理は
作っていません




海の上での仕事もありました
東京湾から豪華クルーザーで
船上パーティー、お客様は
15人くらい皆さんお金持ちみたい

その中にはテレビで見た事もある
人もいました

料理はフレンチのコース
一人2万円ぐらい

食事は無事に終わり後片付け
をしている時にホールを
覗いてみると何かヤバイ事を
していました

この船に一緒に乗っていたら
僕も捕まってしまうのでは!!

もうクルーザーでの仕事は
受けないと思い船から降りようと
すると、お金持ちのマダムから
チップで万札を数枚握らされました



いろんな店を渡り歩いたら
色々なエピソードがあります
その他の事は食のテーマで
書く事もあると思います




      次回に続く

   福岡に帰って来た理由 30

夜はほとんど毎日が送別会
昼は引っ越しの用意
たいして荷物はありませんが
本だけはたっぷりありました


約1坪の広さの
クローゼットにびっしり
何冊あるか分かりませんが
かなりの量です

ここに住みはじめてから
3年間に読んだ本
ほとんど文庫本じゃなく
ハードカバーの単庫本

普通に古紙回収の時に
ゴミで出そうと思ったけど
外に出すのが大変
そこでブックオフに取りに
来てもらって買い取って
もらう事にしました


その前に読んだ本を
もう一度チェック

僕は昔から本に
お札をはさむクセがありました

以前友達に読み終わった本を
あげたところ一万円札が
出てきたと
ビックリされました

なのでもう一度チェック
ただチェックするだけでなく
すごく感動した本は
もう一度読み返したり
していたのですごく時間が
かかりました

出てきたお金は1万5千円ぐらい

その他にブック型の
500円貯金の本も
出て着ました
500円玉がびっしり
200枚詰まって10万円

チェックした本を
ブックオフに買い取って
もらった金額は
CD・DVDを含めてなんと!
10万円を超えていました
引っ越し祝いをもらった
ような感じでした




東京でまた店を出す予定
だった時に物件探しと同時に
スタッフも探していて
1人は決まっていました

四谷で店をやっていた時の
スタッフでまた店をやりたいと
いったら是非働かせて下さい
と言ってきました

長身・イケメンの25歳
その子も福岡に連れていく
つもりでした

「店を出す所が決まった」

「どこですか?」

「福岡!」

「え!埼玉ですか?」

「上福岡じゃない 
 九州の福岡だ!」

彼はあっけにとられていました
口説きつづけましたが
ダメでした



東京を離れる前に
ワインをどうするかという
問題も残っていました
福岡に持って行くかどうするか

10年前に買ったワインが
数百本ありました
ワイン屋のセラーにずっと
預けていました

当時、仕入れ値で1本
1万円以上のワインばっかり
高いワインしかありません

福岡でそんなに高いワインを
店で売るつもりもないので
処分しようと思い
ワイン屋に相談したら
全部買い取ってくれると
言ってきました

それも買った時の倍の値で
友人にその話をしたら
あと2・3年待った方がいい
もう少し上がると言う事
だったので売る事をやめ
今も東京に眠っています




店の備品・食器・鍋
コンベクションオーブン
ワイングラス・調理器具
もいっぱい持っていて
すべて友人の店や
倉庫に置かせてもらっていました

店一軒出せるぐらいの
物と量があったので
東京・横浜・埼玉に分けて

店に置いてもらっている物は
そこの店で普通に
グラス・食器など使っていたので
取り上げるのもよくないので
あげてきました

倉庫に置いてある物は
ほこりはかぶっていましたが
中はきれいで

福岡で店が決まったら
着払いで送ってくれと言ったら

友人は自分で車で福岡まで
運んでくれるというのです

博多のラーメンを
食べたいから福岡に行きたい
ついでに荷物を持っていってやる
と言ってくれました
そんなヒマな人もいました



福岡に帰るあいさつをしに
新潟・仙台・長野・地方都市まで
足をのばしました
友人達は自分の地元で
店をかまえていました

世の中は不景気で
東京しか知らなかったのですが

地方は東京以上に
大変みたいでした
福岡も大変なんだろうと
思いました



東京での最後の1ヶ月の生活は
ビックリするぐらいのスピードで
すぎていきました

短期間にいろんな人に会い
酒を酌み交わし別れを告げ

ひとり、ひとりに
ある約束をして
東京を後にしました




                   次回につづく・・・