福岡に帰ってきた理由 31

8月31日東京は台風が上陸して
引っ越し作業は夕方
台風のピーク時に
ちょうど重なりました

引っ越し屋のお兄さんは
びしょぬれで荷物をトラック
に積んでくれました



東京での最後の夕食は焼肉!
いつもの行きつけの焼肉屋
そのお店はよくTVに出ていて
芸能人とかよく来るお店で
いつもいっぱい

一週間前から1人で予約して
いました、最後に食べるのは
ここの焼肉しかないと思っていました

その日は注文をしないのに
どんどん出てきました
全て僕の好きなものばっかり

大将が出て来て
「最後だから俺が御馳走してやる」
と言われました

僕はそんなつもりで予約したんじゃ
なかったのにでもせっかくの
好意だから大将に甘えて
御馳走になりました

多分一人で2万円分位
食べたと思います
帰る時には焼肉弁当まで
持たされました
本当に
最後の送迎会となりました



福岡への帰路は高速バスで
14時間かけて帰りました
23年間いたのに飛行機で
1時間くらいで帰ってくるのも
あっけない


23年前東京に上京する時は
福岡空港までヤンキーの
友達が10人位
見送りに来てくれました

搭乗口の前でみんな大きい声で
僕に万歳三唱をしました
僕を恥ずかしがらせる為に

まわりの人達はみんな見て
いましたすごく恥ずかしかった
のを覚えています



新宿西口を21時のバス
台風のせいでまだ
雨がかなり降っていました
焼肉で腹いっぱいに
なっていたのと酒の酔いで
すぐに爆睡

起きたのは3時頃で
大阪を走っていました
パーキングエリアで
トイレに行き
お土産の焼肉弁当を食べて
また熟睡

寝ている間いろんな夢を見た
記憶がありますが内容は
覚えていません

次に起きた時は関門海峡を
渡っていました

11時に博多駅に着いた時は
ガンガン日が照っていて
凄く暑かった


とうとう福岡に帰って来ました
もう後戻りはできません


                 次回へつづく

福岡に帰って来た理由32

全ての物事に感謝
自然に,
ありがとうが
言える人になりたい

それが新たに福岡で生活
していくうえでの目標

商売の事はその次

今まで僕は周りの人から
感謝が足りない
ありがとうも言えない奴と
よく言われていました

環境が変われば自分の
悪い所を治せるかなと思い
それも福岡に帰って来た
理由の一つです


福岡に帰って来て
一年と少しとなりますが

環境が変わったぐらいで
そんな簡単に善人にはなれません

でも以前に比べてだいぶ
変わったと思います
たまに東京の頃の傲慢な
自分が出て来る時もありますが

今からも少しづつでも
感謝の気持ちをもって生きていくのが
目標です

死ぬ前に心からありがとうと
言える

そんな自分になりたい







福岡での新生活

部屋の整理は
2日位かかり
食品や日用品を
買いにスーパーやドラックストアへ

東京と比べて安い!
スーパーのお惣菜は
1パック当り100円は
福岡のスーパーが安い

大型電化製品は前に使っていた物を
そのまま持って来てほとんど問題は
なかったけれど
電子レンジは使えませんでした
東日本と西日本では周波数
が違うので電子製品は
使えませんでした

今も持っています
オーブンレンジ
僕が使って
いたので凄く綺麗です
東京へ転勤の方よろしかったら
差し上げます




役所への転居届や身分証の
住所変更その他いろいろな
手続きで住所を書くときに
無意識にいつも福岡都になってしまいました

都道府県の〇で囲むのがクセで
いつも都に〇で囲んでいました



福岡市は健康保険料が高い
会社勤めの時は会社の
社会保険で月に3万円位

無職になって新宿区で
国民健康保険になって
月額5万円、

福岡市では月額8万円!!
ビックリして
区役所に問い合わせたら

福岡市は全国で2番目に
保険料が高い自治体です
計算の誤りではありません
と軽く言われました
受け入れるしかありません




福岡でムカッとしたことは
車を運転する
ドライバーのマナーの
悪さが酷い
これは日本一悪いかも知れません
福岡県警の取り締まりが
甘いのでは
だから福岡では相変わらず
飲酒運転が全国的に目立っています




都市銀行が少なくて不便
福岡に来てからも東京との
やりとりで都銀が必要です

天神まで行かないと
都銀がない、博多駅前に
あるけれどそっちはまだ遠い

でも福岡市でまだよかったかも

九州の他の町だったらもっと
大変だったでしょう




テレビっこの僕としては
テレビ番組が違うのがガッカリ

東京の番組はほとんど
全国放送だと思っていたのに
見たい番組が見れない

日曜の午前の爆笑問題の
サンデージャポンが
見れないのが一番残念です

福岡のチャンネルに慣れるまで
1ヶ月かかりました



その他いろいろ思う事は多く
私鉄、地下鉄が高すぎる
東急ハンズがない
TSUTAYAが少ない、
などなど

東京での便利すぎる
生活をしていたのです

でも慣れるのに時間は
そんなにかかりませんでした

もともと柳川の
田舎者です



               次回に続く

福岡に帰って来た理由33

引っ越してきた次の日から
毎朝5時に起きてランニング

目指す所は大濠公園
濠の周りを1周
2Kmを走ります

自宅からの往復を
合わせると最短距離で
10km,行きと帰りのルートは
毎日違います


福岡の街を知らないので
始めて見る町に興味があり
中央区を中心に大濠公園を
経由で色んな街を見て回りました
店を出す為の町調べも
兼ねていました

福岡では天神くらいしか
分からないのでその他の町
を知るのは大事な事です



日の出前の朝5時から
出勤ラッシュになる前の
7時くらいまでいろいろ見て回りました

朝は人通りがない
でも、中州は若者の酔っぱらい
ホストが騒いでる
歌舞伎町みたい

大名は祭りの後
みたいな感じ
薬院は朝までやっている
店が何軒かある

春吉は僕が感じた中で
一番福岡の色が出ている
町に見えました

けやき通りはおしゃれ
なんとなく福岡の
表参道かな




昼は1人でランチを食べ歩き
デパ地下で食品・食材を見て歩き
プロの料理人が買い出しに
行く店や市場をぶらぶら
見て回って福岡の物価を調べたり
朝ランニングして気になる所があったら
昼にもう一度ゆっくり見て回りました



夜は福岡で数少ない知り合いを
無理矢理さそい呑みに行ったり
気になる店にご飯を食べに行っていました

昔の友達は(20年くらい前)は
付き合いは良かったのに
もうこの年になったら
皆仕事があったり
自分の家庭があるので前みたいに
遊んでくれる友達も
少なくなってしまいました




朝、昼、夜と福岡の街を
見て回ったけど1,2週間くらいでは
分かるはずがありません
この町に住んで生活して
何年か経たないと町を知る事は
出来ないでしょう

福岡に帰ってきてすぐに店を
出すつもりでいました

数少ない飲食店の友人に
会った時に「福岡で働いた事がなかったら
どこかで1年くらいアルバイトで働いて
やったら」と言われましたが
僕は「俺みたいな奴を雇ってくれる所
はどこもない!!」と
つっぱなしました

料理を作る仕事では24歳から誰かの下で
働いた事でなくアルバイトでも自信は
ありませんでした




引っ越して来て1週間もすると
目新しい事もそんなになく
予定もない何か自分で
行動を起こさないと何もない
もちろん遊んでくれる人もいない

ヒマでしょうがない

このまま何もしないでいたら
自分がダメになりそう
どこでもいいから店を
出すしかないと思ってました



そう思っていたら不動産屋の
リーシングサポートの吉住社長に
西中州に物件があるので
見てみないかと言われて
見に行きました

居抜き物件で店はキレイ
少し手を加える所はあるが
低コストで出来そう
ビルの奥で立地は良くない

なんだかんだ考えるより
どこでもいいと思っていたので
ここに決めました



今から15年前東京で店
を出した時はこんなに
簡単に決めれなかったのに




                 次回に続く

福岡に帰って来た理由34

26歳の時、六本木の
イタリアンのお店で
シェフとして働いていました

この店は大物政治家
後の都知事になった方の
第一秘書をしていた人が
オーナーでした

そのオーナーがお客さんを
いっぱい連れて来て
繁盛していました

お客さんは食事が
目的ではなくオーナーに
会いに来店されていました

色々相談事があったのでしょう

僕はそこの店では
普通にメニューを書き
料理を作っていましたが
それ以上の想いは無く
店の事より
自分の事を考えていました



六本木の店は夜だけの
営業だったので昼間に
知り合いの店を手伝ったり
夜中にバーを手伝ったり

何かに熱くなるような事もなく
充実しない毎日を過ごしていて
何かを求めていました
ただ待っているだけでは
何もやって来ない
自分から行動を興さないと
始まらない

今まで、いろんな店を見て来て
もうそろそろ自分で店を
やりたいと思うようになり
他のお店の手伝いをやめて
出店計画を練る時間を
作るようにしました



20歳を過ぎた頃からいつかは
自分の店を持ちたいと思っていて
飲食経営の本や経営に関する本
を読んで自分なりに勉強していました




店を出すなら福岡に帰って出そう
と思っていたのに
ずっと東京にいたら
東京でもやって行ける!
と思うようになっていました

そう思うようになったのも今まで
数十店舗の店に足を踏み入れ
その店の内情を知り

儲かっている店そうでない店
売り上げ、席数、客単価、人件費
材料費、その店の売れ筋商品
ターゲット、立地などを合わせて
自分独自の計算のふるいに掛けて

その店のオーナーだったらの
つもりでシュミレーションしてました


それとは別に自分だったら
こんな店を作りたい
儲けはそんなになくて
いいからと理想の塊の
店をいつも夢見てました


料理は自信があったので
料理には心配はない
店をやっていくには
料理はほんの一部にすぎず
その他、サービスや
あらゆる物に左右されるのも
分かったつもりでいました

色々考えた末、今の自分でも
やって行けると
自分自身に暗示を与えました

でもただ一つだけ一番重要な物が
ありませんでした

それは資金

給料はそれなりに多く
貰っていました
それにアルバイトで小銭も
稼いでいました、でもその時の
貯金はゼロ

お金がないと事業は始められない
そこが大きな問題



初めっから親をあてに
していました
実家に帰省した時に
もうそろそろ店を出したい
と親に相談して

お金を貸してくれと
頼んだのですが
いい返事をもらえず

頭に来て
その足ですぐに実家の前に
福岡銀行があったので融資の
相談に行きました

向かいの菓子屋の息子です
東京でフランス料理屋を
出すので2000万円の融資を
お願いします
実家の土地を抵当に入れます
と勝手な事を言いました

全く相手にされませんでした
26歳の僕は世間知らずの
バカ息子に見られたのでしょう


それからずっと親に頼みこんで
僕の事業計画を話し
絶対に自信があるとかなんとか
言いまくって資金の事は
どうにかしてくれることとなりました

この時、親は思ったのでしょう
お金を融通してあげないと
僕が変なとこから借りて
逆に大変な事になると!



この時、親以外には
誰にも店を出す事は言って
いませんでした

友人、先輩にも
その時の嫁にも内緒で
自分ひとりで進めていました





                     次回に続く

福岡に帰って来た理由35

独立開業しようと思ってから
店がオープンするまで
約1年かかりました


親に開業資金として
300万を借りていて
いい物件があったら
すぐ契約しようと思っていましたが
なかなか思うような条件に合う所がなく
見付かりませんでした

候補地は四谷
前から店を出すなら
四谷だと決めていました

四谷は山手線のど真ん中
東京のどの町からも
そんなに時間がかからない
近所にはオフィス、住宅街もあり
大きな病院もある
当時は
TV局からも近い

でも四谷では
一回も働いた事はなく
ただ漠然と
四谷で店を出したいと思っていました

四谷を選んだ理由があるとしたら
四谷には
有名なフランス料理店があったので
それが理由かもしれません
  



まず不動産屋をいろいろ回り
一階で20坪くらい
坪単価2万円ぐらいの
物件を探していきましたが
なかなかいい物件に出会わなく
時間が過ぎるだけでした

それは
僕自身の度胸がなかったのかもしれません

物件を決めたら
後戻りできない
それで一緒に
2000万円の借金が乗っかってくる
そんな臆病なところがあったので
踏み切れなかったのかもしれません




数多くの不動産屋を回り
いろいろありました

親身になって探してくれるところ
バブリーな不動産屋
僕みたいな
少額な物件を相手しないところ
坪2万円と言っただけで
アゴで追い返されるところもありました

不動産屋の
横柄な所もありましたが
僕の自信のなさが
相手をそうさせていたのかもしれません

不動産屋を一件一件まわるにつれて
僕も勉強していき
いつの間にか
専門用語で話すようになり
堂々とした態度で接するようになっていました

身なりもだらしない恰好から
きちんとするようになり
若く見られたくないので
ヒゲも伸ばして
見た目は30過ぎくらいに
見られるようになっていました

思った事もいろいろ言えるようになり
仲の良くなった不動産屋からは
いい物件が出たので見てみないかと
連絡が入るようになりました


見た物件もいっぱいあり

気に入った所もあるけど
家賃が気に入らなかったり

物件も家賃もいいけど
隣の店がよくなかったり

物件を見るのはいつも昼間で
昼に見たら良かったが
夜に見に行くと全くダメで
となりの店がさわがしかったり

昼は人通りが多いが夜は全くなかったり


居抜店舗もいっぱい見ました

居抜物件は
内装・設備がそのまま残っているので
物によっては
そのまますぐ営業できる物件もあります


和食屋の居抜き物件を見た時は
ひどいものでした

キッチンの中には
洗い物がそのまま置いてあり
冷蔵庫を開けると
ニオイがきつい
腐った食材がそのまま入っていました

テーブルの上には
食器やグラスが
そのまま置いてあり
夜逃げした後のようでした


居抜は内装設備を
造作譲渡料として払わないといけません
なかなか自分の気に入った
内装にはあたりません
自分のカラーを出すには
内装も一から作り直さないといけない

初めての自分の店だから
思った通りの内装
レイアウトにしたいので
居抜は諦めました


気に入った物件があったら
ビルの設備図面まで見せてもらい
電気・ガスの容量は足りるか調べます

小さな雑居ビルで
飲食店が入ってなかったら
東京ガスに問い合わせて
どこまで、どの大きさのガス管が来ているか
調べました

ガスの容量が足りないと
新たに大きいガス管を引くのに
かなりの金額がかかります



どうにか
やっといい物件が見付かり
広さ、賃料、環境もいい
ただ
地下の店舗が気に入らなかったけど
専用階段なので
広く使えるのでそこに決めました

保証金、前家賃を払い契約したら
もう後には引けない

多額の借金が肩に乗っかりました



                   次回に続く…


福岡に帰って来た理由36

物件を契約してから
店のオープンまで
1ヶ月半かかりました


不動産契約した日に
会社に辞表を出して
それから1ヶ月は
六本木の店で働きながら開業準備

店の引き渡しの1週間前に
会社を辞めて

店の引き渡しから1週間後にオープン

時間の無駄がなく
スムーズにオープン出来ました


それまで
飲食店のコンサルタント会社の
手伝いもしていたので
飲食店のオープンの立ち上げは
10件ぐらい経験していました

オープンまでの流れは
よく分かっていて慣れたものでした

今までと違い
僕がオーナーなので
自分が好きなように出来てやりやすい

内装業者も
今までいろいろ見ていて
自分が店を作るなら
ここの会社にしようと決めていました


店舗の内装工事は
大きな宣伝になります


近所の人達は
何の店ができるか
興味津々です

内装屋さんに僕は
看板を一番先に
作ってもらうように頼みました

それと工事の職人さんに
どんな店を出そうとしているか
よく説明して
もし近所の人に
どんな店ができるか聞かれたら
ちゃんと説明してもらうように
頼みました

それとオープンのチラシも
出来ていたのでそれも渡してもらうように

そのお陰で
オープンするまでに
近所の人達から
10件近くの予約を頂きました


店の設計は
設計士にお願いして
その前に僕が細かいところまで書いた
図面をもとにやってもらいました

三角スケールを使って
寸法まで入れて書きました

高校の時に
土木科を出ていたので
製図を書くのは
得意でした



飲食店の店舗設計を
内装屋さんに全て任せたら
大変な事になるのは分かっていました


内装屋のデザイナーは
自分のセンスを見せようとして
オシャレにカッコよく作ろうとしますが
その通りに作られては
店はうまく回りません

飲食店のオペレーションを
全く無視しています

厨房設備の業者もそうで
決められたスペースに
機材を埋め込んでいくだけで
そんなキッチンでは
すごく仕事がやりづらくなります


内装屋のデザイナーも
厨房設備の業者も
飲食店を作るなら
飲食店の現場の経験を
積んでほしいと思います



いろいろな業者との打ち合わせは
すべて六本木の店でやっていました

働きながらなので
時間のロスを省く為に

それとイタリアンの店なので
ここはこうしてほしいと
壁や床のタイルなどを見てもらったり
キッチンの仕事の流れを見てもらうのに
ちょうどよかった

ただ
六本木の店の内装は
豪華すぎて
内装のヒントには
あまり役立ちませんでした



スタッフは決まっていました

今まで働いた事のある
スタッフなので
僕のことをよく分かっていて
仕事もそれなりに出来ていたので
オープン前のトレーニングなしで出来ました

店の引き渡しが終わって
スタッフは店の片づけをして
その後はずっと外を回り
オープンのチラシを2000枚
ポスティングしてもらいました


自分の店のこだわりがありすぎて
内装にかなりの金額がかかりました


内装の素材は
全て自然の物
木・石・土・鉄を
出来るだけ使うようにして
壁は塗り壁
床はイタリアンのテラコッタと
厚さ3cmのフローリング
木は合成材は使わず本物だけ

ワインセラーも
当時では一番高いものを買い
ワイングラスも高いものを
買い揃えました
気づいたらオープン前に
資金は使い果たしていました

これからオープンなのに
運転資金はほとんどありませんでした



次回に続く…

福岡に帰って来た理由 37

オープン当日は予約で満席

その後
暇な日もありましたが
順調な出だしだったと思います


店も新しいけど
スタッフも若くて元気がいい

スタッフの平均年齢は
僕を含めて23歳

みんなピチピチしていました


オープン前にポスティングした
2000枚のチラシ

その回収率
なんと1割

普通では考えられない数字みたいです

ポスティングのお陰で
200組のお客さん
約500人の方が
来店されました

チラシには
「このチラシをご持参の方に限り
ワインフルボトルをサービスします」
と書いていました

みんなワイン目当てで
来店されて食事され

その時店を気に入ってもらって
リピーターになったお客さんは
3割くらいだったと思います

このやり方を
福岡で同じようにやりましたが
結果はみじめなものでした

福岡での商売はキビシイ





オープンして1ヶ月くらいした頃
あるお客様がご家族でいらっしゃいました

大家族で8名くらい

料理、ワインの注文の仕方が
普通のお客さんと違っていました

その家族の
家長のおじいさんが
一人で注文していました

食べ終わった後には
僕のところにやって来て

料理やワインの話をいろいろして
美味しかったと言われ

応援するからガンバレ!
と言葉を頂き

紙を出してくれと言われて

そこに自筆で
「私はこの店を応援します 石津謙介」
と書かれました


「この辺は芸能人、有名人の
うるさい客が来ると思うが、
相手ができない時は
これを見せろ!」と言われました


このじいさん
耄碌して
頭がおかしくなったのかと思いました

その紙は
そのお客さんが帰られた後
すぐに捨てました

その後
他のお客さんが帰られる時に
「さっきの人は石津さんですか?」と
尋ねられました


どんな人かと聞いたら
昔はすごい人だったみたいです


何十年か昔に
日本のファッションを変えた

VANの創始者の
故、石津謙介氏だったのです

僕はその時全く知らず
年配の方はご存じなのでしょう

その後も石津さんは
何度か来店され

その時に一緒に来られたお客さんは
俳優、文化人
政治家、芸能人の大御所

みんな年をとっていて
先の短い人達でした


石津さんには
かわいがられて
色々鍛えられました






半年くらいして
ランチの営業を始めました

数多くのお客さんからの
要望があったので

ランチを始めたら
思った以上にお客さんが入って
ランチの売上だけで
1ヶ月の経費が賄えるくらいありました




近所には
大小の企業もありましたが

当時フジテレビと
日本テレビがあったので

その業界のお客さんも多く
テレビで見る人達が
よく来ていました




それに慶応病院
東京女子医大の大きな病院が近くにあり

そこのドクターに気に入ってもらって
ナースもやって来るようになり

新規のお客さんが増えるばっかり


慶応病院
東京女子医大のドクターの方々は
今でも九州大学で学会がある時は
西中洲の店に
来て頂いています




オープンから
売上も順調に伸びていき

この頃から
自分に自信を持ったのかわかりませんが

大きな勘違いをしていき
調子に乗っていた28才でした



                                      次回に続く…

福岡に帰って来た理由 38

オープンして1年も経つと
常連のお客さんもいっぱいできて
週に5日来店されるお客さんもいたり

女性のお1人様も多くて
カウンターの席が10席あり
多い時には
女性のお一人様が8人
いらっしゃったときもありました


お客さん同士が仲良くなり
それでまた
来店されるような感じでした


カウンターの女性お一人様に
僕が料理を作っているところを見せて
その作り方をお教えていたのがきっかけで
料理教室をやるようになり

料理教室を始めたことで
お客さんの輪が広がり
新規のお客さんが増えていきました 



料理教室を始めた頃に
ワインを好きな
常連のお客さんを集めて 
ワイン会を始めました


第1回目は
僕がワインをセレクトして

そのワインに合う料理を出して
楽しんでもらいました

会費は一人1万円だけど
全くもうけはなく
その会は多分赤字でした 


次の会からは
みんなワイン持参で

僕は料理を用意するだけ

みんな高いワインを
持って来られて
飲んだことのないワインも飲めました

中には
1本5万円ぐらいのワインを
持って来られる人もいました


会を重ねるにつれて
常連のお客さんも増えていき

ワインではなく
日本酒、焼酎など
持って来られる人も出てきて

ワイン会がいつの間にか
異業種交流会になり
ただの飲み会になっていました


この会のお客さんは
みんなお金持ちで
この後ずっと
お店を支えてもらいました

もうお客さんではなく友達でした





オープン前の予定では
お客さん1人あたりの単価は
5,000円ぐらいにしたいと思っていて

それに合わせてメニューを書き
値段を設定したのですが

1年経ったら
平均客単価は
8,000円を超えていました
 
そんな高い店にするつもりは
ありませんでしたが

ほとんどのお客さんは
だいたい8,000円ぐらい
3,000円、5,000円の
お客さんもいましたが

僕はそれくらいの金額を頂けたら
十分だと思っていたのに

僕が思っていたより
お客さんのレベルが高い

もっとグレードのいいものを求められて
料理、ワインのメニューも
変わっていきました





ある大手の
警備会社の会長さんも
常連のお客さんで

その方は
日本酒が好きで
いつも日本酒を用意するのですが

初めていらっしゃったときは
久保田の万寿でも出せばいかなと
思って出したら

こんな酒しかないのかと
叱られました

それから
日本酒の勉強をして
文句を言われないようになりました

ちなみに
久保田の万寿は
1升で仕入値で1万円はします

料理も気を使います

その会長が言われるのは
「とにかく美味しいものを出してくれ、特級品を」
と言われます

美味しさのレベルが
人それぞれで分かりませんが

僕も負けられないので
いろんな所からいい食材を
取り寄せて料理しました


料理は気に入ってもらってましたが
かなりの金額になります

飲み物と料理を合わせて
一人当たり3万円はいっていました

その会長は
お金のことは気にしていないみたいで
これで払ってくれって言われて
財布を渡されます

バックみたいな財布を
そのままレジまで持っていき

開けると300万円ぐらい入っています

会長にそんな財布を渡されて
なんだか自分が
試されているような気がしました

ちゃんと勘定分だけを頂き
おつりの小銭を入れようとしたら

その財布には
小銭を入れるところがなく

小銭は別に
そのまま持っていき渡しました


帰られる時には
スタッフ一人ひとりに
ポチ袋を渡して帰られます

ポチ袋の中には
1万円入っていました

毎回いつもチップを頂けて
いいお小遣いになりました



90年代後半

失われた10年と言いますが
世の中は不況

会社もどんどん倒産していた時でも
お金持ちはいっぱいいます

そんなお金持ちの
お客さんが多かったので

僕の考えがおかしくなり
お客さんを値踏みするようになり

料理人としての良心が
失われつつありました





                        次回へつづく…

福岡に帰って来た理由39

90年代後半 ワインブームが到来

日本でもワインの消費が増え
ソムリエと言う言葉が出まわりました


実は僕もソムリエを目指していた時期がありました

店でワインを提供していますが
店側よりお客さんの方がワインの知識が豊富

それではカッコ悪いので
ワインの勉強を始めました

目指すは
日本ソムリエ協会の認定試験で
合格することです


これはかなり難しい
覚えることがいっぱいあります

ワインの産地
ブドウの品種など
そのワインの銘柄ごとに
覚えなくてはなりません

試験勉強が苦手な僕は
1本1本飲んで覚える事にしました

試験に出るのは高いワインばっかり

例えば

ボルドーのメドックの51シャトーの
グランクリューの格付けワイン

シャトーマルゴー

シャトーラ・トゥール
などなど

51本すべて飲んで覚えていました

その他
ブルゴーニュのグランクリューや
フランスワインを中心に

いろんな国のワインを飲みまくって
覚えていきました

勉強していたのは1年間
1年で飲んだワイン代は
数百万円・・・


ワインの知識も充分に覚え
試験を受けようとした時には
店が忙しくなっていて
試験どころではなく
あきらめました

その後

うちのスタッフが2人も
ソムリエ試験に合格しました

たぶん僕の教え方がいいのと
高いワインをいっぱい飲ませたからでしょう


ワインの勉強をしたお陰で
お客さんにワインのアドバイスも
うまく出来るようになり
高いワインを売るのが
うまくなっていました

この料理には
このワインがすごく合います!
と言い
そのワインの物語を延々と語ります

そうしたらだいたいのお客さんは
少し高くても飲まれます





四谷の店には
一坪くらいの半個室の部屋があり
そこが大人気で
お客さんが予約の時には
秘密の小部屋と言われて予約されます

秘密の小部屋は
4席しかありませんが
そこに8人入る時もありました

接待に使われることが多く
その他に芸能人ご用達
大企業のお偉いさんの密会の場
有名人の不倫の間
いろいろ

この1坪しかない半個室だけで
1ヶ月の売上が最高200万円の時もありました
そのほとんどの売り上げは接待

秘密の小部屋で接待したら
話がうまくいくみたいで

不思議な部屋でした



官僚の接待が
いつも売上があがります

ワイン好きのの役人の方を接待
高いワインばかりがいっぱい出ます

その役人へのお土産に
その人の生まれ年のワインを持たせたり
3人で50万円の時もありました

こんなこともありました

そういったお客さんが高額の支払いをしている所を
丁度店に遊びにきていた中学時代の友達が目撃

僕はその友人から
「今はそんな商売をしているのか」
と僕に言い放ちました

たぶんその支払いぶりからして
ぼったくりバーを想像したのでしょう

確かに高い支払いですけれど
接待する方は
たいした金額ではないのでしょう


役人から認可を頂いたら
何億もの仕事が転がり込んできます


こういった接待が多かったので
メニューは2つ用意していました

1つは普通のメニュー
もう一つは値段が書いていないメニュー

普通のメニューは接待する側用
値段が書いていないメニューは接待される側用です

このやり方は
昔に高級店で働いていた時に
覚えました

接待の時によく使っていました

その他にも例えば

会社の偉い人が
若い女の子と2人で食事に来たとして

偉い方が何でも好きな物を頼みなさい
・・・と言っても
女の子は値段をみてただただビックリ
20歳過ぎの女の子は
高すぎて料理を選べません!

そんな時
若い女の子には
値段が書いていないメニューを渡します

すると
女の子も食べたいものをシンプルに選べて
食事もうまく進みます
もし女の子が値段を知って食べることになったら
美味しい一品であっても喉を通しづらいでしょう

こんな具合です





店がオープンしてから3年目までは
売上は順調に右肩上がり

次の店を出そうかとまで考えていました

何もかもがうまくいき過ぎて
逆に怖いくらいでした


でも
そんな良い事ばかりは
長くは続きませんでした


                       次回につづく・・・・・・



福岡に帰って来た理由 40

オープンから
いいお客さんに恵まれて
5年目を迎えようとしていました

中でも
一番の安定した大口のお客さんは
ビルの大家さんでした

その大家さんは
毎月いつも家賃分以上のお金を
落としていってくれました

その大家さんは街金融で
すごくハブリがいい人でした



ある日
東京地裁から
書類が郵送されてきました

それは
債権差押命令でした

当事者目録を見ると
僕の名前が書いてあります
「第三債務者」として・・・

その書類を見ても
何のことだか全くわかりませんでした



次の日に
銀行の人がやって来て
詳しく説明してもらいました


ビルの所有者の大家さんが
多額の債務を負って自殺したそうで

債務不履行で
銀行の抵当に入っていた
このビルを差押えたので

これから家賃は
銀行に払ってくれという事でした

そして管理費は
新しい所有者に払ってくれという事でした


銀行は
管理費まで取ったら
ビルの管理をしなくてはいけないので
面倒な事は引き受けません


新しいビルの所有者がいるのに
家賃は銀行に

管理費はビルの所有者に払う

なんかスッキリしません

銀行側が言うには
ビルを競売に掛けるので

落札されて
また新しい所有者が現れるまで
家賃は銀行に払ってくれという事でした




裁判所から文書が届いてから
10日くらいたった頃に
週刊誌を見ていたら
前の大家さんの事が載っていました

「銀座の女に50億円だまし取られ自殺」


その銀座の女性は
よく大家さんと一緒に
店に来ていました

大家さんが自殺する
1ヶ月くらい前まで
店で見かけていました

いつも楽しく飲んで食事していたのに

まさかこんな事になるとは……



矢沢永吉も
50億円をだまされて
持ち逃げされたけれど

さすがスーパースターだけあって
立ち直るのも早かったものです

普通の人は
さすがにそんなわけにはいきません




新しい所有者というのが
また変な会社でした

どう見ても
まともな人達ではありませんでした


会社の住所は西新橋

西新橋は
金融関係のヤバイ会社が多いので
たぶんそっち系の会社です

この会社と
結局これから
約2年近く闘うことになるのです





                                次回へ続く…



福岡に帰って来た理由 41

ビルの新しい所有者の実体は
よくわかりませんが

たぶん
西新橋のシステム金融という事でした

一般的にまともな会社ではありません




その新しい所有者は
新たに不動産の賃貸契約を
してくれという事でした

その契約書の内容は
とんでもないもので
今までの家賃の50%アップに
管理費もアップ

保証金として300万円の追加を
言ってきました


契約を結ばない場合は
3ヶ月以内に退去しろという事でした

それと銀行に家賃を払うのをやめて
家賃はこっちに払えと言ってきました


やっぱり新しい所有者は
そんな事をする会社だったのです

言ってくる事が
荒唐無稽で
笑っちゃうくらいです


でも内心では
ただ事ではありませんでした



その会社が言ってくる事は
全く法的には効力がない事です

しかし
それを分かっていて
そういう無理な事を
平気で言ってくるということは

こういう現場に慣れている人達で
こんな人が嫌がる事をするのが
この人達の仕事だから
堂々と言ってくるのでしょう





新しい契約は結びませんでした

店のお客さんで
弁護士の方が何人かいらっしゃって

その人達に相談したら
全く法的には効力がないから
強気で闘いなさい
この試練は自分で乗り越えなさい
アドバイスはするから

もし、この件を私に依頼したら
高いお金を請求するよ!

と励ましケツを叩かれました




そうやって
新しい契約を無視していたら

ビルからの退去を催促され

強気でいた僕ですが
精神的にはまいっていました





ビルの所有者が代わってからの
初めての月末

家賃は銀行に払い
管理費は新しい所有者の所に
振り込みました

そうしたら
新しい所有者の所から
管理費が現金書留で
送り返されてきました

このお金はなんですか?

家賃と管理費の金額とは
全く合いません!


それで僕は
新しい所有者に電話をしましたが

誰も出ず
つながりません

仕方がないので
郵送でこっちの言いたい事を
文書で伝えるしかなく
普通郵便ではなく
内容証明郵便・配達証明郵便で
この後、すべてのやりとりを
文書でしていくようになりました



管理費を払っていなかったら
後から何を言われるかわからないので

法務局に行って
管理費を供託しました




いっぺんにいろいろありすぎたので
何があったのか・・・
自分の精神的な弱さで
許容量がいっぱいいっぱい



思い出すのがごちゃごちゃになりますが

そんな事をいろいろやってるときに

ある日
店の営業が始まる時間に
店の入り口に
ガラの悪い連中が5~6人いました

見た目で一発でわかる
変な兄ちゃんたちがいました

とうとうここまでやるのか!

もう僕は仕事どころではありません

泣きたくなっていました



もしここが福岡だったら

そっち系に強い
あの先輩がいるから
どうにかなったかもしれません


                  次回に続く…



福岡に帰って来た理由 42

新しい所有者の
嫌がらせか
誰か分かりませんが
朝、店にいくと
店の入り口の階段あたりに
生ゴミが
ぶちまかれていました
そのゴミにカラスがむらがって
散かり方がひどくなっていました

ビルの所有者が変わってから
続けて何回か
そんな事があったので
ビルの所有者あてに
抗議文書を送りました
「業務妨害等の行為があった場合は
民事上及び刑事上の法的手段をとります」


それと
店の前にたむろしている
ガラの悪い兄ちゃん達には
お店のお客さんで
マル暴の刑事がいたので(僕の柔道関係の知り合い)
その刑事に頼んで
追っ払ってもらいました



それからは少し
平和が戻ってきましたが
あいかわらず
ビルの所有者からの
退去の催促の文書が
毎週届いて
文書でのおどし
威圧がありました

店の営業は
いつもと変わらず
何とかやっていましたが
僕の頭の中は
いつも
ビルの所有者との事があって
仕事どころでは ありませんでした
サービス業なのに
いつの間にか
僕から 笑顔がなくなっていたように
思います


ビルの管理業務を
やってもらわないようになって
3ヶ月が 過ぎた頃に
上の階のテナントの人がやって来て
水道は大丈夫か?
と聞いてきました
話を聞いたら
水道から
緑色の藻が出て来ると言って来ました
その時は夏で
屋上にある貯水槽のそうじをしていないので
タンクの中で藻が出てきたみたいです
飲食店では水は大事です
僕の店は地下だったので
水道水は直管で引いていました
よって
問題はありませんでした


ビルの管理をしてもらわなくなってから
掃除だけは
店の外までよくやるようにしていました
ビルの管理をしてもらわないことによって
大変な事が起きていました

ビル管理がストップしてから
半年くらいたった時に
ビルの電気系統の管理システムが
集まっている所からブザーが鳴り
鳴っている所を見ると
汚水槽でした
汚水槽の満水警報です

地下の店舗の排水は
そのまま下水道に流れないので
一回
汚水槽に流して
汚水槽からポンプで上にあげて
下水道に流す
そういう仕組みになっています
その汚水槽は
僕の店のすぐ下にあります
そのままほおっておいたら
店が汚水で水浸しになり
営業する事ができなくなります

以前
汚水槽の掃除をしているのを
見ていたので
中の事は
なんとなく 知っていました

汚水槽の中は
飲食店の油が混ざった排水と
トイレの汚水で きたなくて臭い
それに真っ暗
内の大きさは
3tの排水が入る広さ
その中を 見てみると
いっぱい汚水が溜まっていて
あふれそうになるくらいでした

ポンプのスイッチになっている電極に
油がこびり付いていて 作動しなくなっていました
僕はその汚い汚水槽の中に入り
電極に付いている油を落としました
そしたら
ポンプが作動して
10分くらいで 汚水は空に なりました
この後
汚水槽の警報ブザーが鳴るのが
1週間に1回ぐらい だったのが
毎日 鳴るようになったので
業者に頼んで清掃してもらいました
そしたら
思ったより 多額の金額を請求されました


仕事に身が入らず
もう、こんな事を
2年近くもやっていたら
店を閉めたい というより早く
このビルから出たくて出たくて
たまりませんでした
でも


次回につづく…

福岡に帰って来た理由 43

このビルから撤退して
店を移転しようと考えましたが

そうしたら保証金が
多分返ってこない


保証金を支払う
義務があるのは
ビルの所有者で

まず
その所有者は
保証金など
支払うはずはありません


この事態が始まって
2年たとうとする頃に
ビルが競売に掛かることになりました

その競売で落札した方が
新たに,このビルの所有者になり

その落札した人が
まともで良い人だったら
この不動産のトラブルも
やっと解決します


今まで店のお客さんで
このトラブルの事で
相談していた人からは

僕に入札して
このビルを買えと
言われましたが

このビルの競売での
最低落札価格は
億を超えています


僕がそんな金を
持っているはずは
ありません


そうしたら
その費用は
貸してくれると言われました


落札したら
ビルを担保にとれるので
貸す方はリスクがありません


それから
競売の事、不動産売買の事
家賃収入やビルの維持費の事を
いろいろ勉強しました

でも僕に度胸がないのと
このビルから
苦しめられた想いがあったので
入札は諦めました




競売で落札した方は
まともな不動産屋でした
この時点で
2年も続いたこのトラブルは
無事解決しました


この後
このビルで3年間
店を続けたのですが

この3年の間に
所有者が2回変わり

競売での落札価格の倍に
ビルの価格が上がったみたいです


転売、転売です


あの時
僕が入札して
落としていたら

ひと儲けできたかも





不動産のトラブルも
無事解決して
落ち着いた時に

歌舞伎町に
良い物件があったので
友人と共同で出資して
飲み屋を出しました


僕は運営は
全くタッチせず
任せっきりでした


調子良く
オープンから
お店も大盛況で

さすが
世界の歌舞伎町だけあって
当たったらすごい


歌舞伎町の店は
長くても三年
それ以上やるつもりは
全くありません
風営許可の店はもちろん
営業許可を取ってない店も
その半数以上は
短期で荒稼ぎして
税務署の調査が入る前に
撤退!
それが歌舞伎町です



それが
半年くらい経って
友人に電話しても
つながらず

店に行ってみたら
店の名前が変わっていました

 
やられた…と思いました

そう

騙されたのです

ビルの管理会社に問い合わせたら
契約は解約されたと言われ

少し探ってみたら
外国人マフィアが絡んでいました

これはちょっとヤバい

命の危険性を感じ
諦めざるをえませんでした




次回へ続く…



福岡に帰って来た理由44


友人に裏切られてスッカラカン
残っているのは店だけ
ショックが大きくてやる気が出ない 

落ち込みは長く続き
うつ状態みたいになっていき
店に出ていても
沈んだ感じになっていました

常連のお客さんや
何回か来たことのある
お客さんだったら 
会話はしてましたが
はじめて来店されるお客さんが
 なぜか怖くて
話すこともできなくなり
新規のお客さんからは
いつも逃げていました

対人恐怖症になっていました
その対人恐怖症は
店の中だけの 症状で
初めて来店される
お客さんだけが対象でした

予約の電話でも
新規のお客さんは
受けないようにしていました

自分に自信がなくて
そうなったのか分かりませんが
それがどんどんひどくなって行きました
知らない人に接したり
料理を出すのが怖い


仕事を全くやる気がない
店を閉めようと思い
店を売ることにしました
店の売買専門の業者が
ありましたが
手数料をがっぽり取られるので
そういうところに頼まず
友人に言って買い手を探してもらいました

買い手はなかなか決まりません
それは分かっていました
でも店が売れるまで
やる気がなく 
だらだらやっていました




冬の晴れた日
雲ひとつない空を
見上げたら
死ぬならこんな日に
死にたいなー
こんな日なら
死んでもいいかなと思うようになっていました 

そんなときに近所の防衛省に
務めるお客さんに
登山に誘われました
そのお客さんには
自分の今の精神状態と
悩みを相談していました

自然を見たら何か変わるかも
しれないと言われ山登りを
するようになりました


その人は富士登山駅伝に出たり
ヒマラヤに行ったりする
登山のベテランで、
僕と同い年

それから毎週一緒に山登りに
行くようになりました

東京から近くの奥多摩
丹沢・ハッケ岳・谷川岳
によく行っていました

yama001












クライミングもするようになり
高低差100mの絶壁を
5時間かけて登ったり
高所恐怖症の僕ですが
無理して登り
死にたくないと思い
登り切った時の
達成感が最高でした


正月休みに北アルプスに
雪山登山をした時は
登りに吹雪に合い
まさにホワイトアウト
死ぬかもしれない
そんな恐怖に襲われました

でも頂上に着いた時は
晴れて周りの景色が素晴らしい
最高の爽快感

吹雪の登りで
ずっと生きて帰ることを考えていました
毎年正月の雪山では
遭難のニュースが流れているので
そうなりたくない
その思いだけでした



山登りを始めてから1年ぐらいで
なんとなく精神的に
楽になった気がしてきました

仕事にはあいかわらず
やる気が出ない

でも他の事に色々興味が出てきて
農業をやりたいとか
海外への移住を考えたり

南極料理人を目指したり

何を思ったのか
大学で勉強がしたくなり
受験勉強をを始めたり
でもすぐにあきらめました



店を売りに出して
3年がたとうとする頃に
友人から電話があり
店を買いたいやついると
連絡が入ってきました



          次回へと続く

福岡に帰って来た理由 45

店を閉めようと思ってから3年がたち
宣伝も広告もしなく
営業活動もしなく
ダラダラやるきがなくても
どうにか店は持っていました
これは常連のお客さんのお蔭です

そんな時
店を売りに出していたのを忘れていた頃に
店を買いたいという人が現れました

その買い手の方は
僕の友人の知り合いでした
店を見に来て即決で
ここでやりたいと言われました
僕が店を閉めようと思ったのは3年前の事で
もうその時は店を閉めるなど
眼中にありませんでした

なので店を閉めてしまってから
どうしようかと焦りました

よっぽど気に入ってもらったのか
僕の提示額の満額で売れました
10年店をやっていたら
冷蔵庫やエアコンは
寿命でもう駄目、価値はありません
でも店の中はどこもピカピカでした
日々の掃除のおかげです、だから
10年もやっていたようには見えなかったのでしょう


それと
電話番号をそのまま使わせてくれ
と言われました
ぼくが電話番号を「100万で売る」と言ったら
断られました

電話番号はすごく大事です
1,2年後にはまた
近所で店を出すつもりでいたので
店の番号は携帯に転送していました
閉店してからの1年は
この番号によく掛ってきました
店を閉めた事を知らないお客さんからで
一度店に来られた方です
予約の電話です
日に1,2件はありました
今は休業中で
新たにオープンする時はお知らせします
 と言って連絡先を聞いていました

電話番号の100万円は
その後の対応次第では
新規のお客さんの獲得につながります
電話を掛けてきた人は
店の場所と雰囲気をわかっています
味とサービスは違いますが
宣伝広告費と思っての
100万の出費は妥当だと思います
ぐるなびやホットペッパーでも
年間100万円は掛かります

僕が店を閉めた後は
3年間に入れ代わりで
5回変わりました
難しい場所でやっていたのです



契約を交わしてから
店の引き渡しまでは3ヶ月
その間に常連のお客さんへ
閉店の知らせをしなければなりません
お客さんには一時閉店しますけど長期休業です
また3年以内に場所を変えてまたやります
という知らせをしました


店を閉めるまでの3ヶ月は
久しぶりに来るお客さんでいっぱいでした
3年ぶりとか5年ぶりとか

家族でいらっしゃていたお客さんは
以前は小学生だった子供が
久しぶりに来店したらビールをのんでいたり

初デートで食事に来たカップルは
5歳になる子供を連れてきたり

10年の長さを感じました



店をやめた後
どうしようかいろいろ考えていました

心の旅にでようか
農業もやってみたい
ただ
飲食店だけでは働きたくありませんでした
でも僕は料理を作ることしかできない

前から南極に行きたいと思っていて
先輩に南極料理人が数人います
その先輩の所に行って
どうしたら行けるか聞きました
そうしたら僕の知っている先輩が
南極に行ったばかりだから
1年後になると言われました

僕の友人からも
いろいろ仕事のオファーがあり
大手の飲食企業やホテル
待遇は悪くなかったのですが
乗り気ではありません

店のお客さんからも誘いがあり
自社ビルの1階が空いてるから
店を出さないかとか
ペンションを作るから料理を任せたいとか

その中でペットショップの話があり
何か面白そうだし
ペットを愛する人の気持も分からなかったので
何か勉強になるかな?と思い
そこに決めました



オープンしてからちょうど10年後
11年目に入ったその日に 閉店しました
その日は貸切パーティーにして
冷蔵庫の中をカラにして終わりました

27歳からの10年
いろいろあり
初めて経験する事ばっかりで
自信もつきました
その代り
田舎者の良心がなくなり
臆病さとズルさもついたようです

良い事も悪い事も
すべては
自分の感情が左右する
事を分からせてもらった
10年間でした


                
                次回につづく

福岡に帰って来た理由  最終話

 

 

 

教室の窓から投げ捨てた
風にはためく答案用紙

まるで自分のようだ

憎むことも、愛することも
疑う事も、信じることも

紙の裏表

時より強い風に流されて
どこへ行くのか

風に吹かれるまま
周囲に愛憎を撒き散らし

それで、かりそめの満足を得たり
死にたいほどの苦しみを味わったりする

自分がどう足搔き、のた打ち回ろうと

自分を翻弄し続ける風の存在
その風を吹かせている巨大なものに対して
不思議なほど無頓着だったりする

その白紙の答案用紙には
鉛筆でほじくった穴が
次落した自分がそこに






西中洲に物件が決まって
オープンするまでに1ヶ月弱
やらなければいけない事は山ほどあるのに
焦りもせず何かゆっくりしている
どうにかなると思っていました

居抜きで借りた店舗を改装する必要があり
内装業者を知らなかったので
物件を仲介してもらった吉住社長に
内装屋を紹介してもらい
改装を全てお願いすることにしました


改装工事は殺風景な客席側だけ
キッチン、バックヤードは
レイアウトを変えただけ

大きく変わったところは
カウンターを造り
オープンキッチンにしたこと

200910111751000[2]

03_2


何もない真っ白な部屋
ベンチシートを設置して
200910111751001[1]

02_1

02_2

こんな風にガラリと変わりました
いい仕事をしてもらいました

有限会社 リード・クリエイション
〒815-0083 福岡市南区高宮3丁目11-8 1F
tel.092-522-3330 fax.092-522-3332
web
www.misezukuri.com
  •  
  • 店舗デザイン・設計施工
  • 店舗診断・リニューアル
  • 独立開業相談 店舗物件紹介




  •  
    • リードクリエイションの福泉社長は
    • 開業アドバイザーという肩書きがあり
    • 成功店づくり勉強会を開かれていて
    • 僕も半強制的に参加させられました
    • 勉強になりましたが
    • 知っていることの復習みたいな感じでした
    • はじめて起業される方にはすごく役立つと思います

    •  
    • 福岡でまだ右も左も分からず
    • 知り合いも少ない僕に
    • 福泉社長はすごく親切に
    • 色んな人を紹介してもらい
    • 大変助かりました




     
    • 調理道具、食器、グラス、その他備品は
    • 東京から送ってもらい
    • 足りないものを買い揃えるくらい
    • コーヒーマシンが
      送られてきたのは助かりました
    • 新たに買うつもりでしたが
    • 数十万円の出費がなくなりました


    • スタッフは、求人広告や友人の紹介で
    • どうにか頭数はそろい
    • オープン1週間前からトレーニング
    • 料理を覚えてもらって味見して
    • お客さんに説明できるように



    • オープンの3日前には
      2日間のプレオープン
    • 無理矢理満席にして
    • 実践トレーニング
    • 普通の営業のように
    • お客さんに好きなものを注文してもらい料理を出す
    • 全て知り合いに来店してもらい
    • 飲食費は無料
    • 店の練習台になってもらいました

    • スタッフのトレーニングのつもりでしたが
    • 僕自身が1番練習になりました
    • 満席で大量のオーダーを
    • てきぱきこなさなくてはならず
    • それにこの3年くらいは
    • まともに料理を作っていなかったので
    • カンを取り戻すのに大変でした

    • 食べる側も無料なので
    • 普段では絶対にありえない
      注文の仕方でした
    • その時のオーダー伝票は
      まだちゃんととってあります
    • 誰がどれだけ食べたか
    • 金額はいくらだったか

    • オープンしてからまだ
    • 元を取れない人がほとんど



    • オープン当日は
    • 玄関の前はお祝いの花でいっぱい
    • その半分以上は東京の友人から
    • お祝いのメッセージも届き
    • 「知らない町でよく店を出したね!
    • 3ヶ月以内に必ず行きます
    • つぶれる前に!」友人から



    • 11月9日にオープンして
    • それから大変なものでした
    • こんなはずではなかった
    • 福岡に帰って来たことに後悔した事も!
    • でも新しくお客さんとの出会いもあり
    • 応援してもらい、なんとかやってきました
    • 今日で丸2年!!
      新な気持ちで
    • 3年目への出発!!



                  おわり